パーラ朝とは? わかりやすく解説

パーラ朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/10 03:16 UTC 版)

パーラ朝
পাল সাম্রাজ্য
Pal Samrajyô

750年 - 1174年

パーラ朝の版図(紫)。この王朝とともに、ラーシュトラクータ朝(オレンジ)、プラティーハーラ朝(緑)が鼎立していた。
公用語 パーリ語ベンガル語
首都 パータリプトラガウルパハルプールビクラムプル英語版
パーラ英語版
750年 - 770年 ゴーパーラ
1162年 - 1174年 ゴーヴィンダパーラ英語版
変遷
建国 750年
滅亡 1174年

パーラ朝(パーラちょう、英語:Pala dynasty、ベンガル語: পাল সাম্রাজ্য (Pal Shamrajjo))は、8世紀後半から12世紀後半まで、北東インドベンガル地方ビハール地方を中心とした地域)を支配した仏教王朝750年 - 1162年あるいは1174年)。首都はパータリプトラガウル

歴史

王朝の創始

7世紀後半にヴァルダナ朝が滅亡したのち、ベンガル地方ビハール地方無政府状態に陥り、北西インドプラティーハーラ朝デカンラーシュトラクータ朝の侵入もあって、この地域は「マンスヤンヤーヤム(魚の法律、すなわち弱肉強食をあらわす)」と呼ばれた[1]

そのため、この地方の混乱を収拾しようという動きがあらわれ、750年頃にゴーパーラが各地の名士たちによる公式な選挙で王に選出された(ゴーパーラの父シュリー・ヴャプヤタは、この混乱期に武力で小王国を建設した有能な戦士だったようだ)[2]。『ラーマチャリタ』によるとパーラ朝の故地はヴァイレーンドリーとされており、ゴーパーラは同地で王位についたといわれている[1]

この王家の起源は不明であるが、ラージプートの王朝などのように、その祖先を神話や史詩の英雄にさかのぼらせていない点から、クシャトリヤでもバラモンでもなかったと推定される。

カナウジをめぐる争い

ヴィクラマシーラ寺院の遺跡
パーラ朝時代の仏教絵画

770年、ゴーパーラの息子で次王ダルマパーラが王位を継承した[3]。その治世、デカン地方のラーシュトラクータ朝、北西インドのプラティーハーラ朝とカナウジをめぐり激しく争った[4]。カナウジは小国アーユダ朝が支配していたが、ヴァジュラーユダの死後に二人の息子インドイラーユダとチャクラーユダが王位をめぐり争い、インドラーユダが王位を継承した[4]。敗れたチャクラーユダはパーラ朝のダルマパーラと同盟してカナウジに侵攻、インドラーユダはヴァッツァラージャに援助を求め、彼もこれに応じた[4]

こうして、インドラーユダと同盟するヴァッツァラージャは、チャクラーユダと同盟する パーラ朝の領土に攻め入り、その軍勢を撃破してベンガル・ビハールに攻め入った[4]。ところが、ラーシュトラクータ朝のドゥルヴァがすかさずにデカンからプラティーハーラ朝に侵攻し、ヴァッツァラージャはこれに敗れ[5]、ラージャスターンのジャーロールへと逃げた[6]

その後、ダルマパーラはヴァッツァラージャの支援をなくしたインドラーユダを見て、カナウジを攻撃し、この地を占領した。インドラーユダは今度はドゥルヴァに支援を求め、パーラ朝はドゥルヴァに敗られ、カナウジを奪還された[6][7]。だが、ラーシュトラクータ朝の全軍がデカンに引き上げて戦場を明け渡すと、パーラ朝がインドラーユダを排除してカナウジを奪還、チャクラーユダを王位につけた[6][7]。そして、北インド(パンジャーブラージャスターンなど)の諸王を招いて大会議(ダルバール)を開き、自ら祭主となってチャクラーユダの即位式を挙げているが、これはチャクラーユダがパーラ朝の宗主権を言受け入れたことを示していた[8]

ここにダルマパーラはパーラ朝のベンガルからカナウジに及ぶ大帝国を築き上げた[6]。その後、ドゥルヴァの後継者ゴーヴィンダ3世がヴァッツァラージャの後継者ナーガバタ2世を破ったのち、ダルマパーラは南方遠征に向かう情報をつかんだ[6]。ダルマパーラはチャクラーユダとともにゴーヴィンダ3世に貢納品を送り、ラーシュトラクータ朝と講和を結んだ[6]

だが、ナーガバタ2世はラーシュトラクータ朝が南方遠征に専念して北方に関心を示さなくなると、プラティーハーラ朝は北インドの覇権を狙って行動するようなる。チャクラーユダのアーユダ朝を滅ぼして、カナウジを占領、その地に遷都した[6]。ダルマパーラもにムドゥガギリ(ムンゲール)で敗れ、北インドの覇権はプラティーハーラ朝に取って代わられた[9][6]

なお、ダルマパーラは熱心な仏教徒で、ヴィクラマシーラ寺院など多くの僧院を建設し、グプタ朝の時代に建設されたナーランダー僧院など、かつてから存在した仏教寺院も保護された。

デーヴァパーラの治下での最盛期

ダルマパーラの息子デーヴァパーラの治世、パーラ朝は最盛期を迎えた。

デーヴァパーラは父ダルマパーラが北インドで敗北したのを見て、東部での足場を固めることにした[9]。彼はアッサム地方オリッサ地方北部に侵攻し、それぞれの王に宗主権を認めさせた[9][10]。また、その勢力はネパールの一部にまで及んだ[9]

また、プラティーハーラ朝が弱小な王ラーマバドラであることを見て、デーヴァパーラは反撃に出た。ビハールからヴァーラーナシー一帯に至る地域はパーラ朝の領土になり、ガンジス川一帯に広大な領土が築かれた[10]。次のボージャ1世も東部に支配を拡大しようとしたが、デーヴァパーラによって阻止された[5]

パーラ朝は東南アジアとも盛んに交易を行い、仏教を通した交流もあった。デーヴァパーラの治世もまた同様に信仰の篤い仏教徒であった。王の治世には有名なところではシャイレーンドラ朝からの使節が来訪し、目的は同王朝が建てたナーランダー僧院に5ヶ村を施与することにあった[10]

パーラ朝の弱体化

デーヴァパーラの死後、弱小な王が続き、その大帝国の維持に困難をきたすようになってきた。デーヴァパーラの息子マヘーンドラパーラはすぐに死亡し、名将と誉れ高い従兄弟ヴィグラハパーラ1世が王位についたが、その息子ナーラーヤナパーラのために退位した。

ナーラーヤナパーラの長い治世、860年にラーシュトラクータ朝の君主アモーガヴァルシャ1世の侵攻を受け、その軍勢に敗れた[10]。ただし、これは征服目的ではなかったため、領土の縮小にはつながらなかった。また、9世紀後半にボージャ1世のもとでプラティーハーラ朝が台頭し、パーラ朝の領域を侵食した。次代マヘーンドラパーラ1世の治世にはさらに領域を侵食され、マガダ地方が奪われたが、ベンガルの主要部分をなんとか保持した[11]

ナーラーヤナパーラの治世末期、916年から917年にかけてラーシュトラクータ朝のインドラ3世にプラティーハーラ朝に侵攻し、その君主マヒーパーラ1世は一時王位を追われた[12]。パーラ朝はその混乱に乗じて、マヘーンドラパーラ1世に征服されたマガダ地方を奪還した。

10世紀に入ると、プラティーハーラ朝は弱体化して分裂し、かつての力を失い、ガズナ朝マフムードの侵攻を受けて事実上滅亡した。ラーシュトラクータ朝も南方のチョーラ朝との抗争、内乱で弱体化し、10世紀後半には封臣チャールキヤ家のために滅亡することになった[13]

だが、ラージヤパーラの治世、最大の脅威であったプラティーハーラ朝が衰退したにもかかわらず、パーラ朝は再び縮小期に入った[14]。パーラ朝もまた、プラティーハーラ朝が衰退した要因のひとつであるサーマンタ(封臣)の自立化に直面しなけられならなかった。すでに10世紀前半にはベンガル東部は仏教徒の王カーンティデーヴァが独立し、11世紀になるとチャンドラ朝が同地方を支配し、やがてベンガル南部に進出した。ベンガル北部および西部にはカンボージャ朝が10世紀後半に独立を果たした。

だが、マヒーパーラ1世は王朝の第二の創始者といわれ、ベンガルを逐われてマガダ地方に支配を限定されていたパーラ朝はその治世に再び勢力を盛り返した[15]。彼は1000年までにベンガル北部、東部の大部分を回復し、ヴァーラーナシーさえも支配下に置といわれる[15]

とはいえ、1023年にパーラ朝はチョーラ朝のラージェーンドラ1世の軍勢に敗れ、その軍がガンジス川流域にまで到達するなど、王朝の衰運は止めることができなかった[16][15]。この軍勢の目的はガンジス川の聖水など戦利品目的であったため、領土の縮小にはいたらなかったものの、南のカラチュリ・チェーディー朝のガーンゲーヤがそののち侵攻するとパーラ朝の軍勢は敗れ、ヴァーラーナシー一帯が征服された[15]

パーラ朝はその後、内紛でベンガルを失い、さらには後期チャールキヤ朝の君主ヴィクラマーディティヤ6世の攻撃を受け、徐々に弱体化した[15]。ラーマパーラの時代、周辺のサーマンタ、同盟勢力の協力もあって、一時的ながらもマヒーパーラ1世時代の勢力を回復することに成功した[15]

だが、その後はサーマンタの自立、周辺勢力の圧迫があって領土は縮小した[15]。加えて、ベンガルの新興王朝であるセーナ朝に圧迫されて、王朝はまったく振るわず、ビハールの一勢力となった[15]

そして、マダナパーラの治世、1162年頃にセーナ朝に滅ぼされた。とはいえ、ゴーヴィンダパーラという人物が継いだともされるが、それでも1174年には滅亡している。

仏教の繁栄

パーラ式仏像の例
ヒンドゥー教の女神ラリター
アティーシャの肖像。チベット仏教中興の祖である彼は、この王朝の出身である。

パーラ朝の歴代の王は、仏教を保護し、当時の北部ベンガルには、ヴィハーラ(僧院)が多かったため、のちのビハールの語源となるほどであった[17]

8世紀の後半に、インド哲学の巨匠シャーンタラクシタと大密教行者パドマサンバヴァなどを、チベットへ仏教使節を派遣した。

パーラ朝時代の仏教は、密教としての仏教がさかんでいわゆるタントラ仏教であったため、チベット仏教もその影響を強くうけている。

また、芸術を保護したため、絵画、彫刻、青銅の鋳造技術が著しく進歩して、仏教美術では、「パーラ式仏像」を生み出して世界的に有名となり、その美術は「パーラ派」や「東方派」と呼ばれ、優れた技巧と典雅な意匠で知られている。

とはいえ、民衆は仏教のみならず、ヒンドゥー教を信仰する者もいた。

歴代君主

  • ゴーパーラ1世(Gopala I, 在位:750年 - 780年)
  • ダルマパーラ(Dharmapala, 在位:780年 - 810年)
  • デーヴァパーラ(Devapala, 在位:810年 - 850年)
  • マヘーンドラパーラ(Mahendrapala, 在位:850年 - 854年)
  • ヴィグラハパーラ1世(Vigrahapala I, 在位:854年)
  • ナーラーヤナパーラ(Narayanapala, 在位:854年 - 920年)
  • ラージュヤパーラ(Rajyapala, 在位:920年 - 952年)
  • ゴーパーラ2世(Gopala II, 在位:952年 - 969年)
  • ヴィグラハパーラ2世(Vigrahapala II, 在位:969年 - 995年)
  • マヒーパーラ1世(Mahipala I, 在位:995年 - 1043年)
  • ナヤパーラ(Nayapala, 在位:1043年 - 1058年)
  • ヴィグラハパーラ3世(Vigrahapala III, 在位:1058年 - 1075年)
  • マヒーパーラ2世(Mahipala II, 在位:1075年 - 1080年)
  • シューラパーラ(Shurapala, 在位:1080年 - 1082年)
  • ラーマパーラ(Ramapala, 在位:1082年 - 1124年)
  • クマーラパーラ(Kumarapala, 在位:1124年 - 1129年)
  • ゴーパーラ3世(Gopala III, 在位:1129年 - 1143年)
  • マダナパーラ(Madanapala, 在位:1143年 - 1162年)
  • ゴーヴィンダパーラ(Govindapala, 在位:1162年 - 1174年)

脚注

  1. ^ a b 山崎、小西『世界歴史大系 南アジア史1―先史・古代―』、p.202
  2. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.12
  3. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.12
  4. ^ a b c d 山崎、小西『世界歴史大系 南アジア史1―先史・古代―』、p.204
  5. ^ a b チャンドラ『中世インドの歴史』、p.15
  6. ^ a b c d e f g h 山崎、小西『世界歴史大系 南アジア史1―先史・古代―』、p.205
  7. ^ a b チャンドラ『中世インドの歴史』、p.12
  8. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、pp.12-13
  9. ^ a b c d チャンドラ『中世インドの歴史』、p.14
  10. ^ a b c d 山崎、小西『世界歴史大系 南アジア史1―先史・古代―』、p.206
  11. ^ 山崎、小西『世界歴史大系 南アジア史1―先史・古代―』、p.207
  12. ^ 山崎、小西『世界歴史大系 南アジア史1―先史・古代―』、p.209
  13. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.19
  14. ^ 山崎、小西『世界歴史大系 南アジア史1―先史・古代―』、p.210
  15. ^ a b c d e f g h 山崎、小西『世界歴史大系 南アジア史1―先史・古代―』、p.211
  16. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.26
  17. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.14

参考文献

  • 『アジア歴史事典』7(ト~ハ)貝塚茂樹、鈴木駿、宮崎市定他編、平凡社、1961年
  • サティーシュ・チャンドラ 著、小名康之、長島弘 訳『中世インドの歴史』山川出版社、2001年。 
  • 山崎元一; 小西正捷『世界歴史大系 南アジア史1―先史・古代―』山川出版社、2007年。 

関連項目


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