カナウジをめぐる争い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 09:21 UTC 版)
770年、ゴーパーラの息子で次王ダルマパーラが王位を継承した。その治世、デカン地方のラーシュトラクータ朝、北西インドのプラテイパーラ朝とカナウジをめぐり激しく争った。カナウジは小国アーユダ朝が支配していたが、ヴァジュラーユダの死後に二人の息子インドイラーユダとチャクラーユダが王位をめぐり争い、インドラーユダが王位を継承した。敗れたチャクラーユダはパーラ朝のダルマパーラと同盟してカナウジに侵攻、インドラーユダはヴァッツァラージャに援助を求め、彼もこれに応じた。 こうして、インドラーユダと同盟するヴァッツァラージャは、チャクラーユダと同盟するパーラ朝の領土に攻め入り、その軍勢を撃破してベンガル・ビハールに攻め入った。ところが、ラーシュトラクータ朝のドゥルヴァがすかさずにデカンからプラティーハーラ朝に侵攻し、ヴァッツァラージャはこれに敗れ、ラージャスターンのジャーロールへと逃げた。 その後、ダルマパーラはヴァッツァラージャの支援をなくしたインドラーユダを見て、カナウジを攻撃し、この地を占領した。インドラーユダは今度はドゥルヴァに支援を求め、パーラ朝はドゥルヴァに敗られ、カナウジを奪還された。だが、ラーシュトラクータ朝の全軍がデカンに引き上げて戦場を明け渡すと、パーラ朝がインドラーユダを排除してカナウジを奪還、チャクラーユダを王位につけた。そして、北インド(パンジャーブ、ラージャスターンなど)の諸王を招いて大会議(ダルバール)を開き、自ら祭主となってチャクラーユダの即位式を挙げているが、これはチャクラーユダがパーラ朝の宗主権を言受け入れたことを示していた。 ここにダルマパーラはパーラ朝のベンガルからカナウジに及ぶ大帝国を築き上げた。その後、ドゥルヴァの後継者ゴーヴィンダ3世がヴァッツァラージャの後継者ナーガバタ2世を破ったのち、ダルマパーラは南方遠征に向かう情報をつかんだ。ダルマパーラはチャクラーユダとともにゴーヴィンダ3世に貢納品を送り、ラーシュトラクータ朝と講和を結んだ。 だが、ナーガバタ2世はラーシュトラクータ朝が南方遠征に専念して北方に関心を示さなくなると、プラティーハーラ朝は北インドの覇権を狙って行動するようなる。チャクラーユダのアーユダ朝を滅ぼして、カナウジを占領、その地に遷都した。ダルマパーラもにムドゥガギリ(ムンゲール)で敗れ、北インドの覇権はプラティーハーラ朝に取って代わられた。 なお、ダルマパーラは熱心な仏教徒で、ヴィクラマシーラ寺院など多くの僧院を建設し、グプタ朝の時代に建設されたナーランダー僧院など、かつてから存在した仏教寺院も保護された。
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