パーラ朝の弱体化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 09:21 UTC 版)
デーヴァパーラの死後、弱小な王が続き、その大帝国の維持に困難をきたすようになってきた。デーヴァパーラの息子マヘーンドラパーラはすぐに死亡し、名将と誉れ高い従兄弟ヴィグラハパーラ1世が王位についたが、その息子ナーラーヤナパーラのために退位した。 ナーラーヤナパーラの長い治世、860年にラーシュトラクータ朝の君主アモーガヴァルシャ1世の侵攻を受け、その軍勢に敗れた。ただし、これは征服目的ではなかったため、領土の縮小にはつながらなかった。また、9世紀後半にボージャ1世のもとでプラティーハーラ朝が台頭し、パーラ朝の領域を侵食した。次代マヘーンドラパーラ1世の治世にはさらに領域を侵食され、マガダ地方が奪われたが、ベンガルの主要部分をなんとか保持した。 ナーラーヤナパーラの治世末期、916年から917年にかけてラーシュトラクータ朝のインドラ3世にプラティーハーラ朝に侵攻し、その君主マヒーパーラ1世は一時王位を追われた。パーラ朝はその混乱に乗じて、マヘーンドラパーラ1世に征服されたマガダ地方を奪還した。 10世紀に入ると、プラティーハーラ朝は弱体化して分裂し、かつての力を失い、ガズナ朝のマフムードの侵攻を受けて事実上滅亡した。ラーシュトラクータ朝も南方のチョーラ朝との抗争、内乱で弱体化し、10世紀後半には封臣チャールキヤ家のために滅亡することになった。 だが、ラージヤパーラの治世、最大の脅威であったプラティーハーラ朝が衰退したにもかかわらず、パーラ朝は再び縮小期に入った。パーラ朝もまた、プラティーハーラ朝が衰退した要因のひとつであるサーマンタ(封臣)の自立化に直面しなけられならなかった。すでに10世紀前半にはベンガル東部は仏教徒の王カーンティデーヴァが独立し、11世紀になるとチャンドラ朝が同地方を支配し、やがてベンガル南部に進出した。ベンガル北部および西部にはカンボージャ朝が10世紀後半に独立を果たした。 だが、マヒーパーラ1世は王朝の第二の創始者といわれ、ベンガルを逐われてマガダ地方に支配を限定されていたパーラ朝はその治世に再び勢力を盛り返した。彼は1000年までにベンガル北部、東部の大部分を回復し、ヴァーラーナシーさえも支配下に置といわれる。 とはいえ、1023年にパーラ朝はチョーラ朝のラージェーンドラ1世の軍勢に敗れ、その軍がガンジス川流域にまで到達するなど、王朝の衰運は止めることができなかった。この軍勢の目的はガンジス川の聖水など戦利品目的であったため、領土の縮小にはいたらなかったものの、南のカラチュリ・チェーディー朝のガーンゲーヤがそののち侵攻するとパーラ朝の軍勢は敗れ、ヴァーラーナシー一帯が征服された。 パーラ朝はその後、内紛でベンガルを失い、さらには後期チャールキヤ朝の君主ヴィクラマーディティヤ6世の攻撃を受け、徐々に弱体化した。ラーマパーラの時代、周辺のサーマンタ、同盟勢力の協力もあって、一時的ながらもマヒーパーラ1世時代の勢力を回復することに成功した。 だが、その後はサーマンタの自立、周辺勢力の圧迫があって領土は縮小した。加えて、ベンガルの新興王朝であるセーナ朝に圧迫されて、王朝はまったく振るわず、ビハールの一勢力となった。 そして、マダナパーラの治世、1162年頃にセーナ朝に滅ぼされた。とはいえ、ゴーヴィンダパーラという人物が継いだともされるが、それでも1174年には滅亡している。
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