実務家として
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1966年には警視庁を退職し、東海大学を母体とする東海建設に重役として入社。1969年、東海大学へ佐藤宣践を監督として招き、わずか20名足らずだった同大柔道部を日本有数の強豪校に育て上げた(猪熊はこの間に山下泰裕をスカウトした)。 1973年には東海大学の教授に就任。また同大学の創設者である松前重義に心酔し、1979年に松前が国際柔道連盟(IJF)会長に立候補する際には各国を回って、根回しや多数派工作を行うなどした。結果松前が当選し、14年ぶりにIJF会長の座を日本に取り戻した。猪熊は1987年までの8年間会長秘書として松前を補佐し、IJFにおける理事会直結専門委員会の設置や女子の世界選手権・オリンピック競技の開催、廃止が予定されていた1984年ロス五輪での無差別級競技の継続実施、IJFによる段位認定制度、中国のIJF復帰などに手腕を発揮した。これらは一般に松前会長の功績として挙げられるが、実際には猪熊の貢献によるところが大きい。また柔道の専門書の出版も積極的に行い、その発展に貢献した。 1983年の第1回正力杯の運営方針に端を発する全日本柔道連盟と全日本学生柔道連盟との争い(いわゆる柔道界の内紛)に巻き込まれ、学生柔道連盟側の黒幕として嘉納行光館長率いる講道館と対立。柔道界の第一線から次第に遠ざかっていった。 1996年に神奈川県柔道連盟の会長に就き、98年のかながわ・ゆめ国体では地元成年チームの優勝に会場で涙を流す一幕もあった。またこの頃から講道館との軋轢も徐々に解け、全柔連の評議員に復帰した。 1993年より社長を務める東海建設の負債総額が200億円を越えるなど業績不振に陥る。2001年9月28日、その経営責任を取る形で東京都新宿区にある東海建設の社長室にて自刃。享年63。同社の常務取締役で合気道家の井上斌がその最期を看取った。2週間後の10月12日に同社は破産宣告を受けた。 9月30日に横須賀市の曹源寺で執り行われた葬儀では、近親者のみによる密葬であったにも拘わらず1000人近い友人・関係者らが参列した。
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