実務官僚系
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 06:19 UTC 版)
国政の要である太政官に院の意向を反映させるには実務官僚の存在が不可欠であり、院近臣の中には少数ではあるが蔵人・弁官を歴任して院の政務を補佐する者も含まれる。その代表が勧修寺流藤原氏の藤原為房である。勧修寺流も天皇の乳母を輩出している家系であるが、為房は後三条天皇に実務能力を評価され、大江匡房・藤原伊房と並んで「三房」と称された。白河天皇にも重用され、応徳3年(1086年)には五位蔵人・権左少弁・左衛門権佐の三事兼帯となる。その後、蔵人頭・内蔵頭などの要職を歴任して四位のまま参議となり、議政官に加えられた。 為房は摂関家の藤原師実・師通父子にも家司として仕えていたが、子の顕隆や孫の顕頼の代になると、慈円が「顕隆・顕頼のような身分低い者が現れ、摂関はこの連中に圧迫されて恐れはばかる有様だった」と語るように、院の政治顧問としての立場が顕著になる。為房の子である為隆・顕隆・朝隆・親隆は公卿に昇り、子孫の多くは蔵人と弁官を兼ねる職事弁官となった。 勧修寺流は、学者の系統である日野家や「日記の家」と呼ばれた高棟流平氏と並んで、実務官僚貴族の地位を確立することになる。
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