十字軍とアイユーブ朝
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「エジプトの歴史」の記事における「十字軍とアイユーブ朝」の解説
詳細は「アイユーブ朝」を参照 1095年のクレルモン公会議においてローマ教皇ウルバヌス2世はキリスト教徒たちに聖地奪還のための十字軍を呼び掛けた。これはアナトリアでルーム・セルジューク朝と争うビザンツ帝国の救援要請にローマ教皇が応えた結果であり、翌1096年に先遣隊が派遣されて以来、アナトリア、シリアが十字軍の攻撃に晒された。十字軍に参加した諸侯はシリアの沿岸地帯を中心に多数の植民国家を形成した。これは通常十字軍国家と呼ばれる。この十字軍はムスリム側の史料では「フランク(franj、ifranj)」と呼ばれる。シリアのムスリム勢力は相互に争っていて十字軍に対抗できず、アッバース朝とセルジューク朝による対応も限定的なものに留まった。 1167年、十字軍国家の1つエルサレム王国が弱体化したファーティマ朝に襲い掛かり、翌年にはフスタートに迫った。ファーティマ朝の実権を握っていたワズィールのシャーワルは占領を阻止するためにフスタートを焼き払い、カリフ・アーディド(在位:1160年-1171年)は北部イラクとシリアで十字軍と戦っていたザンギー朝のヌールッディーンに救援を求めた。ザンギー朝は既にこれ以前からファーティマ朝の権力闘争に介入を行っており、エジプトに派遣された経験のあるアイユーブ家のシールクーフと甥のサラーフッディーン(サラディン)が共にエジプトに入った。1169年、シールクーフはシャーワルを処刑し自らがファーティマ朝のワズィールの地位に就いたが、間もなく急死したためその地位はサラーフッディーンが引き継いだ。 サラーフッディーンはザンギー朝のヌールッディーンのエジプトにおけるナーイブ(代理、nā'ib)であると同時にファーティマ朝のアーディドによって任命されたワズィール(宰相)でもあるという複雑な立場となった。彼はエジプト統治にあたって、もはや死に体であるファーティマ朝の権威を否定し、アッバース朝のカリフの名のフトゥバで唱えさせた。1171年、最後のファーティマ朝のカリフ・アーディドの死と共にファーティマ朝の歴史は終焉を迎えた。サラーフッディーンはアッバース朝を奉ずることで正統性を確立し、さらに周辺へ勢力を拡張したが、その勢力拡大に脅威を覚えたヌールッディーンは貢納を要求し両者の関係は悪化した。1174年にヌールッディーンが死去し、幼い息子がその地位を継ぐと、サラーフッディーンはザンギー朝の乗っ取りを画策してシリアに侵攻し、1175年にザンギー朝の軍勢を破った。シリアを支配下に置いたサラーフッディーンはヌールッディーンの未亡人を娶りザンギー朝の後継者となると共に、アッバース朝のカリフから「シリア・イエメン・エジプトのスルターン」であることを承認された。 サラーフッディーンが打ち立てた政権はアイユーブ朝と呼ばれる。アイユーブ朝もまた比較的短命の王朝ではあったが、近代まで継続する諸制度を確立しエジプト国家・行政・社会に大きな影響を残すことになる。サラーフッディーンは、ファーティマ朝後期に大きな権力を振るったアルメニア人軍団と、ファーティマ朝を支えたもう一つの軍事力の柱であった黒人奴隷軍団も解体した。そしてクルド人やテュルク人を主体とする自らのマムルークを購入して新たな軍団を作り、それを支える財源として一族と取り巻きの家臣(アミール)たちにイクターを割り当てた。これがエジプトにおける本格的なイクター制の導入となる。これは旧来のアター(俸禄)に替えて、軍事的奉仕(ヒドマ、khidma、建設事業への普請なども含む)と引き換えに軍人に徴税権(イクター)を付与するものであり、ブワイフ朝期にイラク地方で始まり、ザンギー朝にも導入されたものである。その他、税制の改革や通貨の改鋳などの行財政改革、シーア派の排除、城砦の建設などを通じて新たなエジプトの政治体制が構築されていった。サラーフッディーンが1167年から1177年にかけてカイロとフスタートの間のムカッタムの丘に建設した城砦は近代のムハンマド・アリー朝時代までエジプト支配の中枢として機能することになる。 エジプト、シリアにおける支配を盤石のものとしたサラーフッディーンは1186年に本格的な対十字軍の戦いを開始し、翌年にはヒッティーンの戦いで勝利をおさめエルサレムを制圧した。十字軍国家支配地が脅威に晒されたことで、キリスト教諸国は神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ、赤髭)やイングランド王リチャード1世(獅子心王)らを中心に第3回十字軍(1189年-1192年)を実施した。一連の戦いは数々の伝説的な逸話を生み出し、サラーフッディーンはヨーロッパにおいてもアラブにおいても英雄として記憶されている。そして、1192年に海岸地帯をキリスト教徒が、内陸をムスリムが支配し、聖地エルサレムへの巡礼を妨げない、などの条件で講和が結ばれた。講和の翌年にサラーフッディーンは死去し、アイユーブ朝の領土は彼の息子たちによって分割相続された。
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