十字軍とアイユーブ朝とは? わかりやすく解説

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十字軍とアイユーブ朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 21:59 UTC 版)

エジプトの歴史」の記事における「十字軍とアイユーブ朝」の解説

詳細は「アイユーブ朝」を参照 1095年クレルモン公会議においてローマ教皇ウルバヌス2世キリスト教徒たちに聖地奪還のための十字軍呼び掛けた。これはアナトリアルーム・セルジューク朝と争うビザンツ帝国救援要請ローマ教皇応えた結果であり、翌1096年先遣隊派遣され以来アナトリアシリア十字軍の攻撃晒された。十字軍参加した諸侯シリア沿岸地帯中心に多数植民国家形成した。これは通常十字軍国家呼ばれる。この十字軍ムスリム側の史料では「フランク(franj、ifranj)」と呼ばれるシリアムスリム勢力相互に争っていて十字軍対抗できず、アッバース朝セルジューク朝による対応も限定的なものに留まった。 1167年十字軍国家1つエルサレム王国弱体化したファーティマ朝襲い掛かり翌年にはフスタート迫ったファーティマ朝実権握っていたワズィールシャーワル占領阻止するためにフスタート焼き払い、カリフ・アーディド(在位1160年-1171年)は北部イラクシリア十字軍戦っていたザンギー朝ヌールッディーン救援求めたザンギー朝は既にこれ以前からファーティマ朝権力闘争介入行っており、エジプト派遣され経験のあるアイユーブ家のシールクーフと甥のサラーフッディーンサラディン)が共にエジプト入った1169年シールクーフシャーワル処刑し自らがファーティマ朝ワズィール地位就いたが、間もなく急死したためその地位サラーフッディーン引き継いだサラーフッディーンザンギー朝ヌールッディーンエジプトにおけるナーイブ(代理、nā'ib)であると同時にファーティマ朝アーディドによって任命されワズィール宰相)でもあるという複雑な立場となった。彼はエジプト統治にあたって、もはや死に体であるファーティマ朝権威否定しアッバース朝カリフの名のフトゥバで唱えさせた。1171年最後ファーティマ朝のカリフ・アーディドの死と共にファーティマ朝歴史終焉迎えたサラーフッディーンアッバース朝奉ずることで正統性確立し、さらに周辺勢力拡張したが、その勢力拡大脅威覚えたヌールッディーン貢納要求し両者の関係悪化した1174年ヌールッディーン死去し、幼い息子がその地位を継ぐと、サラーフッディーンザンギー朝乗っ取り画策してシリア侵攻し1175年ザンギー朝軍勢破ったシリア支配下置いたサラーフッディーンヌールッディーン未亡人を娶りザンギー朝後継者となると共に、アッバース朝カリフから「シリア・イエメン・エジプトのスルターン」であることを承認された。 サラーフッディーン打ち立てた政権アイユーブ朝呼ばれるアイユーブ朝もまた比較短命王朝ではあったが、近代まで継続する制度確立しエジプト国家行政社会大きな影響を残すことになる。サラーフッディーンは、ファーティマ朝後期大きな権力振るったアルメニア人軍団と、ファーティマ朝支えたもう一つ軍事力であった黒人奴隷軍団解体した。そしてクルド人テュルク人主体とする自らのマムルーク購入して新たな軍団作り、それを支え財源として一族取り巻き家臣アミール)たちにイクター割り当てた。これがエジプトにおける本格的なイクター制導入となる。これは旧来のアター俸禄)に替えて軍事的奉仕(ヒドマ、khidma、建設事業への普請なども含む)と引き換え軍人に徴税イクター)を付与するものであり、ブワイフ朝期にイラク地方始まりザンギー朝にも導入されたものである。その他、税制改革通貨改鋳などの行財政改革シーア派排除城砦建設などを通じて新たなエジプト政治体制構築されていったサラーフッディーン1167年から1177年にかけてカイロフスタートの間のムカッタムの丘に建設した城砦近代ムハンマド・アリー朝時代までエジプト支配中枢として機能することになる。 エジプトシリアにおける支配盤石のものとしたサラーフッディーン1186年本格的な十字軍戦い開始し翌年にはヒッティーンの戦い勝利をおさめエルサレム制圧した十字軍国家支配地が脅威晒されたことで、キリスト教諸国神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世バルバロッサ赤髭)やイングランド王リチャード1世獅子心王)らを中心に第3回十字軍1189年-1192年)を実施した一連の戦い数々伝説的な逸話生み出しサラーフッディーンヨーロッパにおいてもアラブにおいても英雄として記憶されている。そして、1192年海岸地帯キリスト教徒が、内陸ムスリム支配し聖地エルサレムへの巡礼妨げない、などの条件講和結ばれた講和翌年サラーフッディーン死去しアイユーブ朝領土彼の息子たちによって分割相続された。

※この「十字軍とアイユーブ朝」の解説は、「エジプトの歴史」の解説の一部です。
「十字軍とアイユーブ朝」を含む「エジプトの歴史」の記事については、「エジプトの歴史」の概要を参照ください。

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