十字軍によるマアッラ攻囲戦とは? わかりやすく解説

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十字軍によるマアッラ攻囲戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/11 08:29 UTC 版)

マアッラト・アン=ヌウマーン」の記事における「十字軍によるマアッラ攻囲戦」の解説

詳細は「マアッラ攻囲戦」を参照 マアッラト・アン=ヌウマーンの最も悪名高い事件は、第1回十字軍最中1098年起きた攻囲戦その後人肉食事件である。レーモン・ド・サンジルとタラントボエモン率いられ軍勢1098年初夏アンティオキア陥落させたものの、食糧が底を突き激し飢餓陥った同年の秋から冬にかけ、エルサレム前に指揮系統混乱した十字軍アンティオキア周辺農村襲って食糧略奪したが、飢えは収まらなかった。11月十字軍将兵はマアッラ(マアッラト・アン=ヌウマーン)を包囲したが、依然飢えた兵士栄養失調兵士多かった。彼らはマアッラの城壁攻撃し12月12日城内突入して市内にいた2万人ほどの住民虐殺したここまでは他都市攻略戦変わらない展開だったが、飢え兵士達殺した市民食べはじめたローマ教皇ウルバヌス2世にある司令官送った書簡には、「ひどい飢餓がマアッラで兵を苦しめ過酷な必要性迫られた彼らがサラセン人死体で腹を満たすということ起きた」とある。 年代記作家カンラウル(Raoul de Caen)が書いた『ゲスタ・タンクレディ』(Gesta Tancredi)には、「マアッラでわが軍勢は異教徒大人らを生きたまま鍋に入れて茹でた。彼らは子供らを焼き串刺して火にあぶり貪り食った」とある。年代記作家エクスアルベールAlbert of Aix)は「わが軍勢は死んだトルコ人サラセン人食べるに躊躇しなかったのみならずイヌまで食ったと書いている。この時までに十字軍兵士のムスリム・ユダヤ教徒正教徒対す残酷さは噂になっていたが、この事件中東人々衝撃与えたこの人肉食事件は単に飢えによるだけでなく、異教徒への侮蔑影響した可能性がある。 その後十字軍諸侯領有されていたが、1135年1月モースル領主ザンギー朝名祖となるアタベク・イマードゥッディーン・ザンギーがこの都市包囲した。しかし、陥落させることは出来ず包囲によって都市指導者層から名目上宗主権受諾さえ獲得することも出来なかった。3月にはザンギー軍は北部転戦し、マアッラ獲得代わりに、マアッラ支配下にあった十字軍側の四ケ所城塞占領した1185年ハッティーンの戦い勝利したサラーフッディーンによって占領され以後アイユーブ朝傘下になりアレッポアイユーブ朝君主管理となっていたが、1272年バイバルスシリア遠征によってマムルーク朝領有することとなった

※この「十字軍によるマアッラ攻囲戦」の解説は、「マアッラト・アン=ヌウマーン」の解説の一部です。
「十字軍によるマアッラ攻囲戦」を含む「マアッラト・アン=ヌウマーン」の記事については、「マアッラト・アン=ヌウマーン」の概要を参照ください。

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