十字軍の到着
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 18:13 UTC 版)
「アンティオキア攻囲戦」の記事における「十字軍の到着」の解説
十字軍は1097年10月20日、アンティオキア城外のオロンテス川河畔に姿を現した。当時、十字軍の指導者とみなされていた人物にはゴドフロワ・ド・ブイヨン、タラント公ボエモン、トゥールーズ伯レーモンらがいたが、この3人はアンティオキアをどう攻撃すべきかで見解の相違があった。レーモンはアンティオキアの城壁を直接攻撃することを主張したが、ボエモンとゴドフロワはじっくりと攻囲戦に取り掛かることを主張した。レーモンはしぶしぶ同意し、翌10月21日に攻囲戦を開始したが、十字軍の兵力ではアンティオキアの城壁を完全に包囲することはできなかった。東ローマ帝国が築いた城壁は直接攻撃に耐えうる堅固なものであったが、城内のヤギ=シヤーンの側には直接攻撃された場合に必要な兵力は揃っていなかった。このため、十字軍が直接攻撃でなく攻囲戦にかかったのを見てヤギ=シヤーンは胸をなでおろした。 ボエモンは市の北東角の「聖パウロ門」に宿営を張り、レーモンはさらに西の「犬門」の前に、ゴドフロワはやはり西の「公爵門」(オロンテス川を渡りタレンキ村に至る舟橋がある)の前に陣を張った。南の「二人姉妹の塔」、北西角の「聖ゲオルギオス門」には十字軍の包囲が及ばず、攻囲戦の間中、これらの門は城内への補給に使用され続けた。東の山頂の城塞と「鉄門」は万一の場合の籠城の場所であった。
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