十字軍の時期
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十字軍の時代、ルアド島(Ruad)とよばれたこの島は十字軍の橋頭堡または集結地となった。1291年、城塞都市トルトーザ(タルトゥース)がエジプトのマムルーク朝により陥落しシリア本土の拠点がすべて失われるが、沖合のルアド島はテンプル騎士団ら十字軍が死守した。彼らはトルトーザを奪還しようと策を練った。 1300年末、モンゴル帝国の末裔でイル・ハン朝の君主ガザン・ハンから共同作戦の申し出があり、十字軍国家のキプロス王国とアルメニアで会見したいと招待をしてきた。キプロス王国は陸戦用の兵士600人を用意した。300人はキプロス王ユーグ3世の息子アモーリー・ド・リュジニャンの部下で、同数の分遣隊をテンプル騎士団および聖ヨハネ騎士団から出した。騎兵と馬はキプロスから船で集結地点のルアド島へ向かった。彼らはルアド島から何度もトルトーザに攻撃を仕掛けることに成功した(ある資料は彼らは敵と交戦したと書き、ある資料はトルトーザの街を陥落させたと書いている)。しかし待ち望んでいたモンゴル軍の援軍が遅れ(遅れの理由については、資料により天気のため、または疫病のためと違いがある)、ついに十字軍はルアド島に撤退せざるを得なかった。モンゴル軍がいつまでも現れないため十字軍兵士の多くはキプロスへ帰り、ルアド島の警備の番に当たる兵士だけがルアドの兵営に残った。ローマ教皇クレメンス5世は公式にルアド島をテンプル騎士団に与えたが、これがムスリムに敗北を重ねた末に十字軍が聖地に維持した最後の拠点であった。 数か月後の1301年2月、60,000人のモンゴル軍がようやく現れたが、シリア周辺で何度か交戦しただけであった。軍を率いる武将のクトルカ(Kutluka、イル・ハン朝の資料ではクトルグ・シャー Qutlugh-Shah、西洋の資料ではコタラス Cotelesse)はヨルダン川渓谷に20,000の騎兵を置き、イル・ハン朝の長官のいるダマスカスを守らせた。しかし、すぐに撤退せざるを得なかった。 ルアド島の兵舎にはテンプル騎士団が詰めており、120人の騎士、500人の弓矢兵、400人のシリア人補助兵士が総司令官(Maréchal)バルテレミー・ド・カンシー(Barthélemy de Quincy)の指揮下にあった。1302年9月、マムルーク朝の16隻の艦隊がエジプトからトリポリ経由で沖に現れ、軍をルアド島に上陸させルアド島の戦いが始まった。激しい戦いの末、マムルーク軍は島の要塞の攻略に着手し、ド・カンシーも戦死した。1302年9月26日、騎士団員に安全な撤退を認めるという約束が双方の間で交わされ、ついに十字軍は降伏した。しかし約束は守られず、弓矢兵とシリア人兵士はすべて処刑され、騎士はカイロの監獄へ連行された。 なおもキプロス王国は艦隊でシリア沿岸の都市を襲いつづけた。ガザン・ハンが派遣したイル・ハン朝の軍80,000人が1303年にシリアを襲ったものの、3月30日にホムスで敗れ、ダマスカスの南で4月21日に起こったシャカブの戦い(Shaqhab)で敗北した後は、イル・ハン朝がシリアを侵略することはなく、西洋人がモンゴルと組んでシリアを襲うこともなくなった。
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