十字軍の時期とは? わかりやすく解説

十字軍の時期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/11 14:42 UTC 版)

アルワード島」の記事における「十字軍の時期」の解説

十字軍時代ルアド島Ruad)とよばれたこの島は十字軍橋頭堡または集結となった1291年城塞都市トルトーザタルトゥース)がエジプトマムルーク朝により陥落しシリア本土拠点がすべて失われるが、沖合ルアド島テンプル騎士団十字軍死守した。彼らはトルトーザ奪還しようと策を練った1300年末、モンゴル帝国末裔イル・ハン朝君主ガザン・ハンから共同作戦申し出があり、十字軍国家キプロス王国アルメニア会見したいと招待をしてきた。キプロス王国陸戦用の兵士600人を用意した300人はキプロス王ユーグ3世息子アモーリー・ド・リュジニャンの部下で、同数分遣隊テンプル騎士団および聖ヨハネ騎士団から出した騎兵と馬はキプロスから船で集結地点ルアド島向かった。彼らはルアド島から何度もトルトーザ攻撃仕掛けることに成功した(ある資料は彼らは敵と交戦したと書き、ある資料トルトーザの街を陥落させたと書いている)。しかし待ち望んでいたモンゴル軍援軍が遅れ(遅れの理由については、資料により天気のため、または疫病のためと違いがある)、ついに十字軍ルアド島撤退せざるを得なかった。モンゴル軍いつまで現れないため十軍兵士の多くキプロス帰りルアド島警備の番に当たる兵士だけがルアドの兵営残ったローマ教皇クレメンス5世は公式にルアド島テンプル騎士団与えたが、これがムスリム敗北重ねた末に十字軍聖地維持した最後拠点であった。 数か月後の1301年2月60,000人のモンゴル軍がようやく現れたが、シリア周辺何度交戦しただけであった。軍を率い武将のクトルカ(Kutluka、イル・ハン朝資料ではクトルグ・シャー Qutlugh-Shah、西洋資料ではコタラス Cotelesse)はヨルダン川渓谷20,000騎兵を置き、イル・ハン朝長官のいるダマスカスを守らせた。しかし、すぐに撤退せざるを得なかった。 ルアド島兵舎にはテンプル騎士団詰めており、120人の騎士500人の弓矢兵、400人のシリア補助兵士総司令官Maréchal)バルテレミー・ド・カンシー(Barthélemy de Quincy)の指揮にあった1302年9月マムルーク朝16隻の艦隊エジプトからトリポリ経由で沖に現れ、軍をルアド島上陸させルアド島戦い始まった激し戦いの末、マムルーク軍は島の要塞攻略着手し、ド・カンシーも戦死した1302年9月26日騎士団員安全な撤退認めるという約束双方の間で交わされ、ついに十字軍降伏した。しかし約束守られず、弓矢兵とシリア兵士はすべて処刑され騎士カイロ監獄連行された。 なおもキプロス王国艦隊シリア沿岸の都市襲いつづけたガザン・ハン派遣したイル・ハン朝の軍80,000人が1303年シリア襲ったものの、3月30日ホムス敗れダマスカスの南で4月21日起こったシャカブの戦い(Shaqhab)で敗北した後は、イル・ハン朝シリア侵略することはなく、西洋人モンゴル組んでシリアを襲うこともなくなった。

※この「十字軍の時期」の解説は、「アルワード島」の解説の一部です。
「十字軍の時期」を含む「アルワード島」の記事については、「アルワード島」の概要を参照ください。

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