十字軍の説教
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/10 16:53 UTC 版)
1096年の民衆十字軍以降、民衆による十字軍運動は歴史上何度か存在した。その中で1309年の貧者十字軍は、聖地の十字軍国家が滅亡した後に起きたものとしては最初である。1291年、イェルサレム王国の聖地における最後の砦だったアッコがマムルーク朝の攻撃を受け陥落した。1308年、教皇クレメンス5世は十字軍を結成するための説教を行うよう命じ、1309年の春に十字軍を行うとした。これを受けて1309年に実施された十字軍は3つある。教皇領の一部を占拠していたヴェネツィア共和国に対するもの、スペイン南部のムスリム勢力であるグラナダ王国に対するもの、そして聖地を「占拠」しているムスリムに対するものである。この聖地への十字軍は、本来は聖ヨハネ騎士団による小規模なものが想定されていた。十字軍を喚起する説教はカトリック圏各地で行われたが、平信徒に対しては資金を募り十字軍のために祈ることを求めるだけで、彼らが実際に遠征に参加することは考えられていなかった。1309年初頭、十字軍遠征が秋に延期されることになった。6,7月になると、クレメンス5世はアルプス以北の聖職者たちに、ただ金と祈りだけを求め、遠征に参加しようとする信徒は思いとどまらせるという方針を念押しする書簡を送った。資金調達のために贖宥状が発行された。 しかしこれに先立つ春には、すでに説教師たちは十字軍熱を煽る激しい説教を広めてしまっていた。文献によっては数万人にも膨れ上がったという大群衆が、十字軍への参加を志して、教皇のいるアヴィニョンを目指した。彼らは第1回十字軍をまねて服に十字の刺繍を施していた。しかし彼らの十字軍への参加は、当の熱を煽った説教師たちによって却下されてしまった。群衆の多くは聖ヨハネ騎士団に加勢するためにアヴィニョンを目指したのだが、一部には自力で聖地にたどり着こうとしてドナウ川を下った者もいた。同時代の年代記には、彼ら貧者十字軍に敵意すら抱いているものも多い。ヘント年代記によれば、貧者十字軍の大部分は土地を持たない農民、農奴、都市の毛皮職人や服職人などの手工業者だった。わずかに裕福な都市民や騎士も含まれていたが、高位の貴族階級の者は参加していなかった。群衆の大多数は男性だったが、女性も参加していた。ヘント年代記によれば、「イングランド、ピカルディ、フランドル、ブラバント、ドイツなどから数えきれない民衆が、聖地を征服するために出発した」。この十字軍の主要を成していたのはドイツ人だったようである。この年代記ではイングランド人の存在が強調されているが、実際にはイングランド当局がドーバー海峡の港を押さえて監視していたため、十字軍参加を志したイングランド人は容易に阻止された。東方では、ポメラニアやシロンスクからも十字軍への参加者が出たことが記録されている。
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