1233年の戦役とは? わかりやすく解説

1233年の戦役

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/03 04:57 UTC 版)

シュテディンガー十字軍」の記事における「1233年の戦役」の解説

当初司教たちの十字軍の説教対す反応薄かった。彼らに応じ十字架取ったのは、わずかな数の地元騎士たちだけであった1233年1月19日グレゴリウス9世書簡クラマンテ・アド・ノスをウィルブランド、ヒルデスハイム司教コンラート2世フェルデン司教ルデル、ミュンスター司教ルドルフオスナブリュック司教コンラート1世送りミンデンリューベックラッツェブルク司教たちの十字軍説教活動支援するよう求めた実際に説教活動大部分ドミニコ会丸投げされていた。この修道会は、1220年代北ドイツにおいて急速に勢力拡大していた。著名な異端審問官アルビジョワ十字軍でも経験積んだコンラート・フォン・マールブルクも、シュテディンガーに対す十字軍の説教行ったその結果、この第二段階では夏に軍事行動起こすのに十分な数の軍勢集まった1232年から1233年にかけての冬、シュテディンガーはブレーメン大司教のスルッター要塞占領した1233年前半にはシトー会木造修道院建設中だったフーデ修道院ドイツ語版)を破壊した。また伝えられるところでは、シュテディンガーは通りすがりドミニコ会修道士捕らえて斬首した。ミンデンリューベックラッツェブルク司教たちはこうしたシュテディンガーの勝利と共に、シュテディンガーが多くの川で守られ天然要害とされているせいで思うよう十字軍への参加者集まらないことを教皇報告した司教たちの報告からして、シュテディンガーが強敵みなされていたのは明白である。到着した十字軍は、当初何度勝利をおさめたものの、7月にヘンメルスカンプで敗北喫した。この時の戦死者中にはオルデンブルク伯親族であるヴィルデシャウゼン伯ブルハルトも含まれていた。 戦闘続いている6月時点で、グレゴリウス9世再度十字軍呼びかけることにした。6月13日ミンデンリューベックラッツェブルク司教たちへ発され書簡リッテレ・ヴェストレ・ノビスの中で、グレゴリウス9世以前宣言していた部分的な贖宥を完全贖宥切り替えシュテディンガー十字軍聖地への十字軍同等位置付けた。同時期にグレゴリウス9世はオ・アルティトゥド・ディヴィティアルム(6月10日)とヴォクス・イン・ラマ (6月11日13日)という2つのデクレタルを発した。これは、ドイツ広がっていた別の異端ルシファー崇拝対応するものであった。リッテレ・ヴェストレ・ノビスでは、戦死した者だけでなく、十字架をとり(正式な十字軍への参加誓約戦った者すべてに最大限免罪(完全贖宥)が与えられることになったこうした方針転換理由はおそらく、1232年から1233年の冬におけるシュテディンガーの優勢打ち破るため、また新たに提唱されルシファー崇拝者対す十字軍との兼ね合いシュテディンガー十字軍中途半端に終わることを防ぐためであった

※この「1233年の戦役」の解説は、「シュテディンガー十字軍」の解説の一部です。
「1233年の戦役」を含む「シュテディンガー十字軍」の記事については、「シュテディンガー十字軍」の概要を参照ください。

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