1233年の戦役
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「シュテディンガー十字軍」の記事における「1233年の戦役」の解説
当初、司教たちの十字軍の説教に対する反応は薄かった。彼らに応じ十字架を取ったのは、わずかな数の地元の騎士たちだけであった。1233年1月19日、グレゴリウス9世は書簡クラマンテ・アド・ノスをウィルブランド、ヒルデスハイム司教コンラート2世、フェルデン司教ルデル、ミュンスター司教ルドルフ、オスナブリュック司教コンラート1世へ送り、ミンデン、リューベック、ラッツェブルクの司教たちの十字軍説教活動を支援するよう求めた。実際には説教活動の大部分はドミニコ会に丸投げされていた。この修道会は、1220年代の北ドイツにおいて急速に勢力を拡大していた。著名な異端審問官でアルビジョワ十字軍でも経験を積んだコンラート・フォン・マールブルクも、シュテディンガーに対する十字軍の説教を行った。その結果、この第二段階では夏に軍事行動を起こすのに十分な数の軍勢が集まった。 1232年から1233年にかけての冬、シュテディンガーはブレーメン大司教のスルッター要塞を占領した。1233年前半にはシトー会の木造修道院で建設中だったフーデ修道院(ドイツ語版)を破壊した。また伝えられるところでは、シュテディンガーは通りすがりのドミニコ会修道士を捕らえて斬首した。ミンデン、リューベック、ラッツェブルクの司教たちはこうしたシュテディンガーの勝利と共に、シュテディンガーが多くの川で守られた天然の要害とされているせいで思うように十字軍への参加者が集まらないことを教皇に報告した。司教たちの報告からして、シュテディンガーが強敵とみなされていたのは明白である。到着した十字軍は、当初は何度か勝利をおさめたものの、7月にヘンメルスカンプで敗北を喫した。この時の戦死者の中には、オルデンブルク伯の親族であるヴィルデシャウゼン伯ブルハルトも含まれていた。 戦闘が続いている6月の時点で、グレゴリウス9世は再度十字軍を呼びかけることにした。6月13日にミンデン、リューベック、ラッツェブルクの司教たちへ発された書簡リッテレ・ヴェストレ・ノビスの中で、グレゴリウス9世は以前宣言していた部分的な贖宥を完全贖宥に切り替え、シュテディンガー十字軍を聖地への十字軍と同等と位置付けた。同時期にグレゴリウス9世はオ・アルティトゥド・ディヴィティアルム(6月10日)とヴォクス・イン・ラマ (6月11日–13日)という2つのデクレタルを発した。これは、ドイツに広がっていた別の異端ルシファー崇拝に対応するものであった。リッテレ・ヴェストレ・ノビスでは、戦死した者だけでなく、十字架をとり(正式な十字軍への参加誓約)戦った者すべてに最大限の免罪(完全贖宥)が与えられることになった。こうした方針転換の理由はおそらく、1232年から1233年の冬におけるシュテディンガーの優勢を打ち破るため、また新たに提唱されたルシファー崇拝者に対する十字軍との兼ね合いでシュテディンガー十字軍が中途半端に終わることを防ぐためであった。
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