1234年の戦役
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「シュテディンガー十字軍」の記事における「1234年の戦役」の解説
1234年前半、前年より大規模で大々的な軍勢が集まった。これはドミニコ会がブラバント、フランドル、ホラント、ラインラント、ヴェストファーレンで十字軍説教を展開した成果だった。シュターデ年代記は、この時の十字軍は熱狂的であったと伝えている。ただフリースラントのエモは、こうしたドミニコ会の説教活動が公的な裏付けに基づいたものなのかという疑いの声が広がっていたと記録している。エモの記録している中で最大の事件は、フリースラントのFivelgoで起きたものである。アピンヘダムで説教をしていた2人のドミニコ会士が攻撃され、フローニンゲンに逃げ込んだのち、Fivelgoの人々を攻撃する説教を始めたのである。すぐ近くのStetsと呼ばれる地では、地元の修道士がドミニコ会士の説教を妨害し、ロットゥムの聖ユリアナ修道院に投獄された。結局Fivelgoで十字軍への参加に応じた者は僅かだった。 新たに十字軍に加わった諸侯は、ブラバント公アンリ1世、リンブルフ公ハインリヒ4世、ホラント伯フロリス4世、ゲルデルン伯オットー2世、クレーフェ伯ディートリヒ5世、ユーリヒ伯ヴィルヘルム4世、オルデンブルク伯オットー1世、ヴィルデシャウゼン伯ハインリヒ3世、ラーヴェンスベルク伯ルートヴィヒ、ブレダ領主、ショレン領主、その他フランドルの男爵数名といった面々であった。以上の全員は、オルデンブルク伯家と関係があった。十字軍の諸侯軍の総司令官はブラバント公が務めることになった。ザクセン世界年代記によればその総勢は4万人に上ったというが、実際には8000人前後だっただろうと考えられている。 対するシュテディンガーの兵力は、フリースラントのエモによれば11,000人だったというが、実際には2,000人を超えることはなかったと考えられている。その装備は十字軍と比べ貧弱で、鎧の類は一切なく、武器もパイクや短剣であった。シュターデ年代記によれば、シュテディンガーの指導者たちはタンモ・フォン・フントドルフ、ボルコ・フォン・バルデンフレス、ディートマール・フォン・ディールクという名であったという。それ以外に十字軍と戦ったシュテディンガーの名は伝わっていない。 ドイツ騎士団はシュテディンガーを擁護し、最後まで教皇と共に武力衝突回避の道を探っていた。1234年3月18日、グレゴリウス9世はドイツにいる教皇使節モデナのグリエルモに書簡グランディス・エト・グラヴィスを送り、シュテディンガーと大司教の間の争いを仲裁するよう命じた。しかしその手紙が届くのが間に合わなかったのか、もしくは大司教があえて無視したのか、いずれにせよ対立は解消せず、春に十字軍の軍事行動が始まった。 十字軍はヴェーザー川西岸に結集し、北へ向かった。そしてオフトゥム川に舟橋をかけ、シュテディンゲンに侵攻した。1234年5月27日、十字軍はアルテネシュ近くでシュテディンガー農民軍を捕捉し、背後から攻撃した。彼らは数度の突撃の末、農民軍のパイクの槍衾を突破した。農民軍が前進しようとして陣形を崩したところを、クレーフェ伯が側面から攻撃した。ここに至って戦闘は十字軍の勝利と決まり、全面的な虐殺が始まった。女性や子どもも容赦されず殺され、生き残った多くの農民たちは沼地へ逃げ込んだ。一方十字軍側では、オルデンブルク伯家の親族であるヴィルデシャウゼン伯が戦死した。ゲルハルト2世は、自身と十字軍が聖母マリアの介入によりもたらされたのだと記録している。 アルテネシュの戦いでは膨大な戦死者が出たため、遺体は集団墓地に葬られた。その数は史料によって異なり、2,000人 (ケルン国王年代記)、4,000人 (Historia monasterii Rastedensis)、6,000人 (シュターデ年代記)、11,000人 (ニノーヴェのボードゥアン)というようになっている。これらの数字をそのまま受け取ることはできないが、いずれにせよ破滅的な戦闘になったという印象は伝わってくる。Annales Erphordensesでは、「彼ら(シュテディンガー)の妻たちや子どもたち」も死んだことを強調している。 生き残ったシュテディンガーは降伏し、大司教の要求を受け入れた。彼らの自由土地所有権は奪われ、北側の土地はオルデンブルク伯の、南側の土地はブレーメン大司教のものとなった。1235年8月21日、グレゴリウス9世は書簡エクス・パルテ・ウニヴェルシタティスを出し、シュテディンガーに対する破門を解いた。フリースラントのエモによれば、シュテディンガーの中にはフリースラントを脱出して北ドイツの都市に逃げた者もいた。Historia monasterii Rastedensisによれば、フリースラントを脱出した者たちがテッラ・ルストリンギアエという共同体を作ったが、13世紀後半にオルデンブルク伯に攻撃されたという。
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