1234年の戦役とは? わかりやすく解説

1234年の戦役

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/03 04:57 UTC 版)

シュテディンガー十字軍」の記事における「1234年の戦役」の解説

1234年前半前年より大規模大々的軍勢集まった。これはドミニコ会ブラバントフランドルホラントラインラントヴェストファーレン十字軍説教展開した成果だった。シュターデ年代記は、この時の十字軍熱狂的であった伝えている。ただフリースラントエモは、こうしたドミニコ会説教活動公的な裏付け基づいたものなのかという疑いの声が広がっていたと記録している。エモ記録している中で最大事件は、フリースラントのFivelgoで起きたのである。アピンヘダムで説教をしていた2人ドミニコ会士が攻撃されフローニンゲン逃げ込んだのち、Fivelgoの人々攻撃する説教始めたのである。すぐ近くのStetsと呼ばれる地では、地元修道士ドミニコ会士の説教妨害し、ロットゥムの聖ユリアナ修道院投獄された。結局Fivelgoで十字軍への参加応じた者は僅かだった新たに十字軍加わった諸侯は、ブラバント公アンリ1世リンブルフ公ハインリヒ4世ホラント伯フロリス4世ゲルデルン伯オットー2世クレーフェディートリヒ5世ユーリヒ伯ヴィルヘルム4世オルデンブルク伯オットー1世、ヴィルデシャウゼン伯ハインリヒ3世ラーヴェンスベルク伯ルートヴィヒブレダ領主、ショレン領主、その他フランドル男爵数名といった面々であった。以上の全員は、オルデンブルク伯家と関係があった。十字軍諸侯軍総司令官ブラバント公務めることになったザクセン世界年代記によればその総勢は4万人上ったというが、実際に8000人前後だっただろうと考えられている。 対するシュテディンガーの兵力は、フリースラントエモによれば11,000人だったというが、実際には2,000人を超えることはなかったと考えられている。その装備十字軍比べ貧弱で、鎧の類は一切なく、武器パイク短剣であったシュターデ年代記によれば、シュテディンガーの指導者たちはタンモ・フォン・フントドルフ、ボルコ・フォン・バルデンフレス、ディートマール・フォン・ディールクという名であったという。それ以外十字軍戦ったシュテディンガーの名は伝わっていない。 ドイツ騎士団はシュテディンガーを擁護し最後まで教皇と共に武力衝突回避の道を探っていた。1234年3月18日グレゴリウス9世ドイツにいる教皇使節モデナグリエルモ書簡グランディス・エト・グラヴィスを送り、シュテディンガーと大司教の間の争い仲裁するよう命じた。しかしその手紙が届くのが間に合わなかったのか、もしくは大司教があえて無視したのか、いずれにせよ対立解消せず、春に十字軍軍事行動始まった十字軍ヴェーザー川西岸結集し北へ向かった。そしてオフトゥム川に舟橋をかけ、シュテディンゲンに侵攻した1234年5月27日十字軍はアルテネシュ近くでシュテディンガー農民軍捕捉し背後から攻撃した。彼らは数度突撃の末、農民軍パイク槍衾突破した農民軍前進しようとして陣形崩したところをクレーフェ伯が側面から攻撃した。ここに至って戦闘十字軍勝利決まり全面的な虐殺始まった女性や子どもも容赦されず殺され生き残った多く農民たちは沼地逃げ込んだ一方十字軍側では、オルデンブルク伯家の親族であるヴィルデシャウゼン伯が戦死したゲルハルト2世は、自身十字軍聖母マリア介入によりもたらされたのだと記録している。 アルテネシュの戦いで膨大な戦死者出たため、遺体集団墓地葬られた。その数は史料によって異なり、2,000人 (ケルン国王年代記)、4,000人 (Historia monasterii Rastedensis)、6,000人 (シュターデ年代記)、11,000人 (ニノーヴェのボードゥアン)というようになっている。これらの数字そのまま受け取ることはできないが、いずれにせよ破滅的な戦闘になったという印象伝わってくる。Annales Erphordensesでは、「彼ら(シュテディンガー)の妻たちや子どもたち」も死んだことを強調している。 生き残ったシュテディンガーは降伏し大司教要求受け入れた。彼らの自由土地所有権奪われ北側土地オルデンブルク伯の、南側土地ブレーメン大司教のものとなった1235年8月21日グレゴリウス9世書簡エクス・パルテ・ウニヴェルシタティスを出し、シュテディンガーに対す破門解いたフリースラントエモによれば、シュテディンガーの中にはフリースラント脱出して北ドイツ都市逃げた者もいた。Historia monasterii Rastedensisによればフリースラント脱出した者たちがテッラ・ルストリンギアエという共同体作ったが、13世紀後半オルデンブルク伯攻撃されたという。

※この「1234年の戦役」の解説は、「シュテディンガー十字軍」の解説の一部です。
「1234年の戦役」を含む「シュテディンガー十字軍」の記事については、「シュテディンガー十字軍」の概要を参照ください。

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