清貧と巡礼と聖遺物崇拝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:57 UTC 版)
「中世ヨーロッパにおける教会と国家」の記事における「清貧と巡礼と聖遺物崇拝」の解説
「ドミニコ会」、「フランシスコ会」、および「托鉢修道会」を参照 10世紀末ごろから、従来の修道院とは異なった形で、よりイエスのあり方に近い修道生活を目指す運動がおこった。この運動の淵源は東ローマ帝国に近い、南イタリアのカラブリア地方のギリシア系修道士たちの生活に端を発し、南イタリアにイスラム教徒が攻撃を加えるようになると、彼らは難を避けて北上した。11世紀になると全ヨーロッパ規模で、この新しい運動に基づいた修道院設立が活発化した。 12世紀ころから貧しく苦しみに満ち、貧者の味方である人間性豊かなイエス像も数多く見られるようになったが、このキリスト像をその清貧の姿勢と聖痕の奇跡によって体現したのがアッシジのフランチェスコであった。フランチェスコは貧しいキリストに倣って、世俗への執着を断ち、所有権を放棄し托鉢と伝道を行い、自然のあらゆる存在を兄弟姉妹とよび、小鳥や魚に説教を試みた。教皇インノケンティウス3世から修道会としての認可を受け、フランシスコ会が設立された。フランシスコ会の戒律は服従、清貧、童貞というベネディクト会戒律と同じだが、フランシスコ会はこれを文字通りに実行し、同時代に設立されたドミニコ会とともに托鉢修道会や乞食僧団とよばれた。フランシスコ会はどの教会管区にも属さず、ただローマ教皇にだけ属したため、教皇の尖兵として十字軍の説教や異端審問官としても活動した。 13世紀にはフランシスコ会からはパドヴァのアントニオ、ボナヴェントゥラ、オックスフォードではロバート・グロステートやロジャー・ベーコン、ドゥンス・スコトゥス、ウィリアム・オッカムなどが出て、イギリス経験主義哲学の基礎となった。ほか弟子キアラ(クララ)はクララ会を作った。 また、聖遺物への呪力信仰や聖人に対する信仰が高まり、サンティアゴ・デ・コンポステーラ、聖地エルサレム、ローマをはじめ各地に収められた聖遺物や聖人の故地への巡礼がさかんとなった。中世ヨーロッパの民間信仰のなかでも最も重要なものとされるのが聖遺物崇拝であり、キリスト教の救済やスコラ哲学ではなく、聖遺物の功徳が人々の心をとらえ、有徳の僧侶の遺体なども聖遺物とされ、聖遺物が製造されたり、売買も行われるようになった。聖職者だけでなく皇帝も聖遺物とされ、フリードリヒ1世が十字軍司令官としてシリアで戦死したときには遺体はシチューにされて骨は故国に運ばれた。 聖遺物礼拝や聖人崇拝では万人が救いを求めることができるという大衆的性格を持っており、修道院や教会は聖遺物を発掘したり、聖人祭(聖徒祭)を開催させることによって、こうした民間崇拝は熱狂化していった。巡礼によって聖地のネットワークが形成され、徐々に定期市や港湾の交通網や金融市場が形成され、古代のローマ帝国の街道網とはかなり異なった交通網が成立していった。
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