清貧論争の激化とその帰結とは? わかりやすく解説

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清貧論争の激化とその帰結

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/11 10:31 UTC 版)

フランシスコ会」の記事における「清貧論争の激化とその帰結」の解説

清貧論争」におけるスピリトゥアル派の理論家として知られるのが、ペトルス・ヨハンニス・オリーヴィ(英語版)(ピエトロ・ディ・ジョヴァンニ・オリーヴィ)である。オリーヴィが唱えた貧しき使用」論は、問題の本質法的権利如何にあるのではなく宗教生活実践にあることを主張し厳格派の人びとからの絶大な支持得た。オリーヴィによれば、「貧しき使用」こそがフランシスコ会本質であり、修道会加入する際の誓願絶対的義務として掲げられている条目である。それゆえ、それはあらゆる機会すべての行為において全面的に営まれていかなくてはならない実践項目である。その厳格な清貧実行うつしてこそ、人間世俗の財への執着滅してこの世から離脱して霊的に自由な身となるのであってそれこそがいわば人間の霊完成条件たりうるものであった。彼らは聖人フランチェスコカリスマ絶対視し、その会則キリストとの神秘的な一致由来発していると考え会則キリスト福音と同じである、とした。それゆえ、会士たるものフランチェスコの「遺言」に忠実で、「裸のキリストには裸で従う」清貧文字通り実践していかなくてはならない、と考えのである。したがって、彼らが教皇特権依存する修道会あり方反対するのも当然であり、オリーヴィ自身あくまでも修道会とどまって清貧実践の道を模索したが、彼の影響受けたスピリトゥアル派は修道会外部に独自の集団形成しよう試みた。 コンヴェントゥアル派とスピリトゥアル派の対立先鋭化し、前者による後者迫害後者分派活動明白になったのは、1280年代のことである。上述のようにスピリトゥアル派の中心南フランス北イタリアであった開祖フランチェスコ活動したアッシジを含む中部イタリアは、他地域にもまして彼の事績濃厚な記憶として残っていた。イタリアのスピリトゥアル派は早い時期より迫害され修道会から分離し、やがて流浪の身となり、スピリチュアル派の立場共感するアラゴン王家のフェデリーコ2世統治するシチリア王国逃走した。彼らは「フラティチェッリ(英語版)」Fraticelli と称されるが、「清貧論争」の表舞台からは姿を消したまた、北イタリアのスピリトゥアル派は指導者アンジェロ・クラレーノの名前から「クラレーニ」と呼ばれ、のちにオブセルヴァンテス改革派合流した。したがって清貧論争中心となったスピリトゥアル派の拠点南仏ラングドックであったラングドックでは、1280年代からオリーヴィが「迷信的なセクト頭目」と非難され論争激化した彼の教えはスピリトゥアル派の修道士たちに霊感あたえただけではなく多く在俗信徒支持集め、ひとつの宗教運動巻き起こしつつあった。しかし、それゆえ警戒感をいだかれ、オリーヴィの著作禁書となり、スピリトゥアル派の修道士追放され監禁されるなどの迫害遭遇した。スピリトゥアル派の指導者ひとりであるカザーレのウベルティーノによれば14世紀初め10年間で300名を越える会士が迫害受けたという。厳格派として出発したスピリトゥアル派の一部修道士第一会則厳守して絶対清貧を守るべきだと主張しまた、代々教皇フランチェスコ会内紛仲裁依頼した1303年アナーニ事件直後教皇ボニファティウス8世死去し、ベネディクストゥス11世が登位した短期間終わり枢機卿団分裂して教皇選挙コンクラーヴェ)の実施に困難が生じたまた、アナーニ事件事後処理絡んでフランス王国の王フィリップ4世端麗王)の干渉によって、1309年教皇庁アヴィニョンに移るという事態が生じたアヴィニョン捕囚)。アヴィニョン教皇庁での初めての教皇となったフランス出身クレメンス5世は、ラングドックのスピリトゥアル派に対し比較好意的な態度示した1309年、スピリトゥアル派支持者からの求めにより、教皇教皇庁内にフランシスコ会問題調査する委員会設け、両派の代表をアヴィニョン招いた。両陣営の代表はそれぞれの立場主張したが、クレメンス5世好意的な姿勢により、スピリトゥアル派の修道士は他の会員たちとは異なった生活を続けることができたのである。しかし、両陣営立場の違いは、そのまま教皇教会法権威かそれとも聖者フランチェスコカリスマか、究極的にはどちらを権威とするかという対立連なっていた。 クレメンス5世死去後2年空位期間ののち、1316年ヨハネス22世教皇として位したアヴィニョン教皇庁新教ヨハネス22世は、1317年、ついに「清貧論争」への決着付けた。彼はナルボンヌ南仏オード県)とベジエ(同エロー県)のスピリトゥアル派修道士対し、「短い僧衣」を捨て総長服従すべしと命じたのである。「短い僧衣」とは、スピリトゥアル派の「貧しき使用実践象徴となっていたもので、これを捨てることは彼らに自身アイデンティティ放棄するよう命じたものにほかならない。そして、両所のスピリトゥアル派61名を名指し呼び出し10日以内アヴィニョン出頭して教皇の前で先の命令に対して返答すること、査問拒否する者は破門処することを申し伝えた。ナルボンヌとペジエの修道士たちはアヴィニョン目ざし5月22日深夜アヴィニョン教皇宮殿門前にたどりついた。査問光景はアンジェロ・クラレーノの筆を通じて知ることができる。教皇多数顧問団囲まれ立派な椅子腰掛けており、一方の側にはコンヴェントゥアル派が、他方の側にスピリトゥアル派が控えた査問とは名ばかりで、実際に逮捕のための口実にすぎなかった。「教皇聖下正義を」の叫びのなか、スピリトゥアル派の会士はひとりひとり連行され投獄された。 アヴィニョン呼び出されたスピリトゥアル派の修道士監獄収容されている間、数か月何ごともなく過ぎたが、1317年10月ヨハネス22世教皇勅書『クォルムダム・エクスィギト』を発しフランシスコ会修道士は、修道会総長粗末な僧衣をやめさせ、穀物倉・ワイン倉の設置認可する権限をもつことを認めよ命じた。教勅は「清貧偉大なり。然れども、公正はさらに偉大であり、もし完全に保たれるならば、すべての中で服従こそがもっと善きことである」のことばで結ばれていた。結局ヨハネス22世求めたことは修道会総長権威に、そして最終的に教皇権威服従することであった。 この教勅を受けて16総長チェゼーナミケーレ英語版)は、60余名収監中のスピリトゥアル派修道士教皇へ服従求めた多数修道士はこれにしたがったが、なおも20名は抵抗した。そこでヨハネス抵抗するスピリトゥアル派についての判断13人の神学者からなる委員会諮問した。神学者たちの答えは、あくまでも服従拒み続けるのであれば異端として断罪されるべきであるという見解一致していた。ヨハネスはなおも教勅を受け入れない修道士フランシスコ会異端審問官僚ミシェル・ル・モワーヌに委ねた最終的には5名を除いて異端的立場捨て教皇総長恭順誓った最後まで不服従を貫いた5人は「異端」とされ、直前悔悛した1名のみ終身刑処せられ、他の4名は世俗の手渡され1318年5月7日マルセイユにおいて火刑処せられた。ローマ教会公認した会則あくまでも忠実であろうとした人びと生きながら火あぶり処せられた、その光景には多く人びと衝撃受けたこののち1328年までの10年間、異端審問による異端狩りおこなわれたマルセイユモンペリエトゥルーズなどから多く男女が、地方司牧権力世俗権力からの協力得て逮捕され異端審問官たちによって尋問された。異端狩り対象となったのは、スピリトゥアル派の信念曲げなかった人びとと「ペガン」と呼ばれた多く在俗信徒第三会)の支持者たちであった1322年フランシスコ会総会キリスト12使徒私有財産保有しなかったのは正当な神学的見解であることを公式に表明した。この見解はスピリトゥアル派に近い考えであったため、ヨハネス22世はこれを異端非難フランシスコ会教皇に従う者と従わない者とで再び分裂した。 一方こうした厳し弾圧対し、スピリトゥアル派はフランシスコ会主流派のみならずカトリック教会に対して公然と反抗修道士たちは教皇制度批判展開した教会イエス自身も富を尊重していたと主張し、スピリトゥアル派(厳格派)に対す異端審問強化して監禁火刑処し、さらに彼らの修道院破壊するなど弾圧加えたヨハネス22世次々に教勅を発布して、今までフランシスコ会あたえていた特権撤回し、「キリスト清貧」をあくまでも主張することは異端的であるとして、清貧立場からのあらゆる批判封じようとした。これはしかしフランシスコ会主流派をも動揺させ、総長チェゼーナミケーレやペルガモのボナグラフィア、オッカムのウィリアムらは、教皇を「異端」と非難し1328年ヨハネス22世対立していた神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世のもとに逃れヨハネス22世廃位要求した。 スピリトゥアル派もまた、皇帝ルートヴィヒ4世連携しフランシスコ会員のピエトロ・ライナルドゥッキを対立教皇ニコラウス5世としてローマ擁立する事態となった同年ルートヴィヒは、アナーニ事件首謀者ひとりでコロンナ家のシアッラ・コロンナからローマ市民代表して帝冠を受け、ヨハネス22世教皇廃位宣言した。しかし、1330年対立教皇ニコラウス5世アヴィニョンヨハネス22世降伏したチェザーレミケーレ流れを汲む人びとは、のちに南イタリアナポリ王国シチリア王国逃れ、「フラティチェッリ」と呼ばれるスピリトゥアル派の残党合流した。 スピリトゥアル派の反抗終息したのはようやく1354年になってからのことであった。しかし、彼らの主張それ以前にすでに多く支持者集めていたのであり、『黙示録註解』を著したラングドックのペトルス・ヨハンニス・オリーヴィは、「ペガン」と呼ばれた一般信徒たちから非公式聖人」として崇敬されたのであった

※この「清貧論争の激化とその帰結」の解説は、「フランシスコ会」の解説の一部です。
「清貧論争の激化とその帰結」を含む「フランシスコ会」の記事については、「フランシスコ会」の概要を参照ください。

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