清貧論争の激化とその帰結
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「フランシスコ会」の記事における「清貧論争の激化とその帰結」の解説
「清貧論争」におけるスピリトゥアル派の理論家として知られるのが、ペトルス・ヨハンニス・オリーヴィ(英語版)(ピエトロ・ディ・ジョヴァンニ・オリーヴィ)である。オリーヴィが唱えた「貧しき使用」論は、問題の本質が法的権利の如何にあるのではなく、宗教生活の実践にあることを主張し、厳格派の人びとからの絶大な支持を得た。オリーヴィによれば、「貧しき使用」こそがフランシスコ会の本質であり、修道会に加入する際の誓願に絶対的義務として掲げられている条目である。それゆえ、それはあらゆる機会、すべての行為において全面的に営まれていかなくてはならない実践項目である。その厳格な清貧を実行にうつしてこそ、人間は世俗の財への執着を滅して、この世から離脱して霊的に自由な身となるのであって、それこそがいわば人間の霊的完成の条件たりうるものであった。彼らは聖人フランチェスコのカリスマを絶対視し、その会則をキリストとの神秘的な一致に由来を発していると考え、会則はキリストの福音と同じである、とした。それゆえ、会士たるものフランチェスコの「遺言」に忠実で、「裸のキリストには裸で従う」清貧を文字通り実践していかなくてはならない、と考えるのである。したがって、彼らが教皇特権に依存する修道会のあり方に反対するのも当然であり、オリーヴィ自身はあくまでも修道会にとどまって清貧実践の道を模索したが、彼の影響を受けたスピリトゥアル派は修道会の外部に独自の集団を形成しようと試みた。 コンヴェントゥアル派とスピリトゥアル派の対立が先鋭化し、前者による後者迫害と後者の分派活動が明白になったのは、1280年代のことである。上述のようにスピリトゥアル派の中心は南フランスと北イタリアであった。開祖フランチェスコが活動したアッシジを含む中部イタリアは、他地域にもまして彼の事績が濃厚な記憶として残っていた。イタリアのスピリトゥアル派は早い時期より迫害され、修道会から分離し、やがて流浪の身となり、スピリチュアル派の立場に共感するアラゴン王家のフェデリーコ2世が統治するシチリア王国へ逃走した。彼らは「フラティチェッリ(英語版)」Fraticelli と称されるが、「清貧論争」の表舞台からは姿を消した。また、北イタリアのスピリトゥアル派は指導者アンジェロ・クラレーノの名前から「クラレーニ」と呼ばれ、のちにオブセルヴァンテス改革派に合流した。したがって、清貧論争の中心となったスピリトゥアル派の拠点は南仏のラングドックであった。 ラングドックでは、1280年代からオリーヴィが「迷信的なセクトの頭目」と非難され、論争が激化した。彼の教えはスピリトゥアル派の修道士たちに霊感をあたえただけではなく、多くの在俗の信徒の支持も集め、ひとつの宗教運動を巻き起こしつつあった。しかし、それゆえに警戒感をいだかれ、オリーヴィの著作は禁書となり、スピリトゥアル派の修道士は追放され、監禁されるなどの迫害に遭遇した。スピリトゥアル派の指導者のひとりであるカザーレのウベルティーノによれば、14世紀初めの10年間で300名を越える会士が迫害を受けたという。厳格派として出発したスピリトゥアル派の一部の修道士は第一会則を厳守して絶対の清貧を守るべきだと主張し、また、代々の教皇はフランチェスコ会の内紛の仲裁を依頼した。 1303年、アナーニ事件の直後教皇ボニファティウス8世が死去し、ベネディクストゥス11世が登位したが短期間に終わり、枢機卿団が分裂して教皇選挙(コンクラーヴェ)の実施に困難が生じた。また、アナーニ事件の事後処理に絡んでフランス王国の王フィリップ4世(端麗王)の干渉によって、1309年、教皇庁がアヴィニョンに移るという事態が生じた(アヴィニョン捕囚)。アヴィニョン教皇庁での初めての教皇となった、フランス出身のクレメンス5世は、ラングドックのスピリトゥアル派に対し、比較的好意的な態度を示した。1309年、スピリトゥアル派支持者からの求めにより、教皇は教皇庁内にフランシスコ会の問題を調査する委員会を設け、両派の代表をアヴィニョンに招いた。両陣営の代表はそれぞれの立場を主張したが、クレメンス5世の好意的な姿勢により、スピリトゥアル派の修道士は他の会員たちとは異なった生活を続けることができたのである。しかし、両陣営の立場の違いは、そのまま教皇の教会法的権威かそれとも聖者フランチェスコのカリスマか、究極的にはどちらを権威とするかという対立に連なっていた。 クレメンス5世死去後、2年の空位期間ののち、1316年、ヨハネス22世が教皇として登位した。アヴィニョン教皇庁の新教皇ヨハネス22世は、1317年、ついに「清貧論争」への決着を付けた。彼はナルボンヌ(南仏・オード県)とベジエ(同エロー県)のスピリトゥアル派修道士に対し、「短い僧衣」を捨て、総長に服従すべしと命じたのである。「短い僧衣」とは、スピリトゥアル派の「貧しき使用」実践の象徴となっていたもので、これを捨てることは彼らに自身のアイデンティティを放棄するよう命じたものにほかならない。そして、両所のスピリトゥアル派61名を名指しで呼び出し、10日以内にアヴィニョンに出頭して教皇の前で先の命令に対して返答すること、査問を拒否する者は破門に処することを申し伝えた。ナルボンヌとペジエの修道士たちはアヴィニョンを目ざし、5月22日深夜アヴィニョンの教皇宮殿の門前にたどりついた。査問の光景はアンジェロ・クラレーノの筆を通じて知ることができる。教皇は多数の顧問団に囲まれ立派な椅子に腰掛けており、一方の側にはコンヴェントゥアル派が、他方の側にスピリトゥアル派が控えた。査問とは名ばかりで、実際には逮捕のための口実にすぎなかった。「教皇聖下、正義を」の叫びのなか、スピリトゥアル派の会士はひとりひとり連行され、投獄された。 アヴィニョンに呼び出されたスピリトゥアル派の修道士が監獄に収容されている間、数か月は何ごともなく過ぎたが、1317年10月、ヨハネス22世は教皇勅書『クォルムダム・エクスィギト』を発し、フランシスコ会の修道士は、修道会総長が粗末な僧衣をやめさせ、穀物倉・ワイン倉の設置を認可する権限をもつことを認めよと命じた。教勅は「清貧は偉大なり。然れども、公正はさらに偉大であり、もし完全に保たれるならば、すべての中で服従こそがもっとも善きことである」のことばで結ばれていた。結局、ヨハネス22世が求めたことは修道会総長の権威に、そして最終的には教皇の権威に服従することであった。 この教勅を受けて、16代総長のチェゼーナのミケーレ(英語版)は、60余名の収監中のスピリトゥアル派修道士に教皇への服従を求めた。多数の修道士はこれにしたがったが、なおも20名は抵抗した。そこでヨハネスは抵抗するスピリトゥアル派についての判断を13人の神学者からなる委員会に諮問した。神学者たちの答えは、あくまでも服従を拒み続けるのであれば、異端として断罪されるべきであるという見解で一致していた。ヨハネスはなおも教勅を受け入れない修道士をフランシスコ会の異端審問官僚ミシェル・ル・モワーヌに委ねた。最終的には5名を除いて異端的立場を捨て、教皇と総長に恭順を誓った。最後まで不服従を貫いた5人は「異端」とされ、直前に悔悛した1名のみ終身刑に処せられ、他の4名は世俗の手に渡され、1318年5月7日、マルセイユにおいて火刑に処せられた。ローマ教会が公認した会則にあくまでも忠実であろうとした人びとが生きながら火あぶりに処せられた、その光景には多くの人びとが衝撃を受けた。こののち、1328年までの10年間、異端審問による異端狩りがおこなわれた。マルセイユやモンペリエ、トゥルーズなどから多くの男女が、地方の司牧権力や世俗権力からの協力を得て、逮捕され、異端審問官たちによって尋問された。異端狩りの対象となったのは、スピリトゥアル派の信念を曲げなかった人びとと「ペガン」と呼ばれた多くの在俗信徒(第三会)の支持者たちであった。 1322年、フランシスコ会総会はキリストと12使徒が私有財産を保有しなかったのは正当な神学的見解であることを公式に表明した。この見解はスピリトゥアル派に近い考えであったため、ヨハネス22世はこれを異端と非難、フランシスコ会は教皇に従う者と従わない者とで再び分裂した。 一方、こうした厳しい弾圧に対し、スピリトゥアル派はフランシスコ会主流派のみならずカトリック教会に対しても公然と反抗、修道士たちは教皇制度の批判を展開した。教会はイエス自身も富を尊重していたと主張し、スピリトゥアル派(厳格派)に対する異端審問を強化して監禁や火刑に処し、さらに彼らの修道院を破壊するなど弾圧を加えた。ヨハネス22世は次々に教勅を発布して、今までフランシスコ会にあたえていた特権を撤回し、「キリストの清貧」をあくまでも主張することは異端的であるとして、清貧の立場からのあらゆる批判を封じようとした。これはしかし、フランシスコ会主流派をも動揺させ、総長チェゼーナのミケーレやペルガモのボナグラフィア、オッカムのウィリアムらは、教皇を「異端」と非難し、1328年、ヨハネス22世と対立していた神聖ローマ皇帝のルートヴィヒ4世のもとに逃れ、ヨハネス22世の廃位を要求した。 スピリトゥアル派もまた、皇帝ルートヴィヒ4世と連携し、フランシスコ会員のピエトロ・ライナルドゥッキを対立教皇のニコラウス5世としてローマに擁立する事態となった。同年、ルートヴィヒは、アナーニ事件の首謀者のひとりでコロンナ家のシアッラ・コロンナからローマ市民を代表して帝冠を受け、ヨハネス22世の教皇廃位を宣言した。しかし、1330年、対立教皇ニコラウス5世はアヴィニョンのヨハネス22世に降伏した。チェザーレのミケーレの流れを汲む人びとは、のちに南イタリアのナポリ王国やシチリア王国に逃れ、「フラティチェッリ」と呼ばれるスピリトゥアル派の残党と合流した。 スピリトゥアル派の反抗が終息したのはようやく1354年になってからのことであった。しかし、彼らの主張はそれ以前にすでに多くの支持者を集めていたのであり、『黙示録註解』を著したラングドックのペトルス・ヨハンニス・オリーヴィは、「ペガン」と呼ばれた一般信徒たちから「非公式の聖人」として崇敬されたのであった。
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