教皇としてとは? わかりやすく解説

教皇として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 05:05 UTC 版)

ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)」の記事における「教皇として」の解説

1978年パウロ6世死去伴って新教皇に選出されたのは、当時65歳の(教皇としては若い部類に入る)アルビノ・ルチアーニ(ヨハネ・パウロ1世であった。このコンクラーヴェ参加したヴォイティワは、これでもう次のコンクラーヴェ参加することはないだろう思っていた。 ところが、ヨハネ・パウロ1世不可解な状況下で在位わずか33日で死去したため、1978年10月に再びコンクラーヴェが行われることになったコンクラーヴェではイタリア出身枢機卿二人激戦繰り広げたため選出停滞その中でドイツ南米出身枢機卿らがポーランド出身ヴォイティワ支持し始めると一気形勢逆転して生涯2度目コンクラーヴェ臨んだ58歳のヴォイティワ新教皇に選出された(10月16日選出10月22日就任)。 ヴォイティワは、前教皇ヨハネ・パウロ1世遺志を継ぐ形で「ヨハネ・パウロ2世」という複合名名乗った。そして新教皇として、第2バチカン公会議精神実現を前教皇から引き継ぎ現代社会適合した形への典礼刷新推進したヨハネ・パウロ2世は、ポーランド人初のローマ教皇であり、社会主義国初の教皇誕生でもあった。このことは故郷ポーランドにおいてナショナリズム高揚と、社会主義国としてソビエト連邦の衛星国であることへの抵抗心を一層大きくすることになった。このことは1980年独立自主管理労働組合「連帯」による国内改革への要求へとつながりひいては1988年以降ポーランド民主化運動へとつながってゆくことになる。

※この「教皇として」の解説は、「ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)」の解説の一部です。
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