教皇との争いとは? わかりやすく解説

教皇との争い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/18 06:01 UTC 版)

ジョン (イングランド王)」の記事における「教皇との争い」の解説

1205年カンタベリー大司教ヒューバート・ウォルター亡くなると、修道士達が選んだ候補イングランド王司教推薦した候補とが共にローマへ行きカンタベリー大司教の座を争ったが、教皇権強化狙っていたローマ教皇インノケンティウス3世両者とも認めず代わりに枢機卿のラングトンを任命したジョンはこれを認めず、これを支持する司教たちを追放して教会領を没収したため、1207年インノケンティウス3世イングランドを聖務停止とし、1209年ジョン破門した。 ジョンはこれを無視し逆に没収した教会領の収入軍備増強図ったが、1213年になるとインノケンティウス3世はさらにフランス王イングランド侵攻支持し、これに呼応して諸侯の反乱計画されたため、ジョンイングランド及びアイルランド教皇寄進教皇封臣となり、聖ペテロ祭費とは別に年額マルク支払う事を約することにより、破門解かれた。

※この「教皇との争い」の解説は、「ジョン (イングランド王)」の解説の一部です。
「教皇との争い」を含む「ジョン (イングランド王)」の記事については、「ジョン (イングランド王)」の概要を参照ください。

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