教皇との通信
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 07:07 UTC 版)
「フランクとモンゴルの同盟」の記事における「教皇との通信」の解説
1260年代には、モンゴルに対するヨーロッパの認識に変化が生じ始め、彼らは敵としてではなく、イスラム教徒との戦いにおいて潜在的な同盟国たりうると見なすようになった。1259年まで、教皇アレクサンデル4世はモンゴルに対抗して新たな十字軍を促していて、アンティオキアとキリキア・アルメニア王国の君主がモンゴルに冊封を受けたことを聞いて非常に失望していた。アレクサンデル4世は来るべき評議会の課題にこの2君主の件を加えようとしていたが、1261年、評議会が招集される直前に、新たな十字軍を起こすことも出来ず、急死した。新任の教皇の選出が行われ、早くからモンゴルの脅威について警告を発していたエルサレム大司教のパンタレオンに決まった。彼は教皇ウルバヌス4世を名乗り、新たな十字軍設立のための資金を集めようとした。 1262年4月10日、イルハン朝のハーン、フレグはフランスのルイ9世にハンガリーのジョン(英語版)を通じて新しい書簡を送り、再び同盟の締結を要請した。書簡は、以前はモンゴルは教皇がキリスト教徒のリーダーであるという印象の下にいたが、真の力はフランス国王にあることを理解した、と説明した。そして、教皇の利益のためにエルサレムを占領するというフレグの意向に言及し、エジプトに対抗して艦隊を派遣することが出来るかルイ9世に尋ねた。フレグはキリスト教徒のためにエルサレムを回復することを約束しつつ、一方でモンゴルの世界征服の探求においてモンゴルの主権は譲らないことも主張した。ルイ9世が書簡を実際にどう扱ったかは明確になっていないが、いくつかの点は教皇ウルバヌス4世に伝えられ、彼は前任者と類似した内容で回答した。彼の教皇勅書Exultavit cor nostrum(英語版)の中で、ウルバヌス4世はフレグにキリスト教信仰に向けた親善の表現に対して歓迎の言葉を述べ、キリスト教への改宗を推奨した。 歴史家は、ウルバヌス4世の行動の正確な意味について異議を唱えている。英国の歴史家ピーター・ジャクソン(英語版)によって例証される主流派は、ウルバヌス4世はこの時点で未だモンゴルを敵として見なしていたと考えている。この認識は数年後にモンゴルが潜在的な同盟国であると見なされた時、教皇クレメンス4世の治世の間(1265年–1268年)に変わり始めた。しかし、フランスの歴史家ジャン・リシャール(英語版)は、1263年という早い時期にウルバヌス4世のとった行動がモンゴルと欧州の関係のターニングポイントとなる引き金になり、以後モンゴルが実質的な同盟国と認識されるようになった、と主張している。リシャールはまた、ジョチ・ウルスのモンゴル族がイスラム・マムルーク朝と再び同盟を結んだことに対する反応として、西欧とイルハン朝のモンゴル族とビザンチン帝国の間の連合が形作られたと主張している。しかし、歴史家主流派の共通の見方は、同盟を成立させるための多くの試みがなされたが、試みが不成功に終わったということである。
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