教皇とネポティズム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:08 UTC 版)
「アレクサンデル6世 (ローマ教皇)」の記事における「教皇とネポティズム」の解説
ロドリーゴの事を熟知し、その危険性を警告していた数人の枢機卿を除けば、多くの関係者にとってロドリーゴが教皇位につく事がどのような結果をもたらすかは予測できなかった。実際、アレクサンデル6世の治世の初めは、教会法の厳密な遵守と教会統治の円滑な実施が徹底され、彼以前の教皇達の治世の出鱈目さとは対照的なものであるかのように見えた。困窮した財政を立て直す為に支出を切りつめ、率先して質素な生活を送った。他の枢機卿には不評だったが、財政は好転した。 しかし、これまでの教皇がしてきたのと同じように、彼もネポティズムを改めたわけではなかった。愛人ヴァノッツァ・カタネイに生ませた息子のチェーザレはまだ16歳でピサ大学の学生であったが、バレンシアの大司教に取り立てられた。従兄弟のジョバンニは枢機卿にあげられた。外国出身でイタリアに基盤を持っていなかったと言う事情もあるが、最終的にはボルジア家だけで5人の枢機卿が任命され、多くの知人友人も取り立てた。 さらに2人の息子、第2代ガンディア公ホアンとホフレの為に教皇領とナポリ王国領を割譲しようとした。ガンディア公へ贈られた領土はチェルヴェーテリとアングイッラーラであった。これらの領土は後にナポリ王であるフェルディナンド1世の後援によってオルシーニ家のヴィルジニオ・オルシーニが得る事になる。アレクサンデル6世はこのフェルディナンド1世と激しく対立し、ミラノのスフォルツァ家と結んで対抗する事になる。 ここにおいて教皇はかつてのライバル、ローヴェレ枢機卿の激しい反発を受ける事になる。ローヴェレはフェルディナンド1世の支援を受けており、教皇との関係が悪化すると、身の危険を察知したローヴェレは自らの司教区オスティアへ避難し、そこへ立てこもった。フェルディナンド1世はフィレンツェ共和国、ミラノ公国、ヴェネツィア共和国と手を結んで彼を援護した。 教皇はこれに対して1493年4月25日に反ナポリ王国同盟を結成して開戦準備を始めた。フェルディナンド1世はスペイン本国に援助を求めたが、スペインはポルトガルとの世界分割協定において教皇の承認を必要としていた為、教皇との争いに手を貸せる状態ではなかった(このスペインとポルトガルとの紛争回避への模索は1494年に締結されたトルデシリャス条約で実を結ぶ事になる)。 教皇は自らの地位強化の為、次々と手を打っていた。娘のルクレツィアは既にスペインのドン・ガスパロ・デ・プロシダと結婚していたが、父親の教皇登位に伴って父の元へ戻り、ペーザロ公ジョヴァンニ・スフォルツァ(英語版)と結婚させられた。結婚式はバチカンで華々しく行なわれた。 しかし教皇庁の華やかさとは裏腹に、ローマの情勢は目もあてられない程になっていた。街にはスペイン人のならずものや、暗殺者、売春婦、情報屋などが我が物顔に歩き回り、殺人や強盗は日常茶飯事であった。オルシーニ家やコロンナ家というローマ貴族でさえも教皇の権威に服さず、徒党を組んで治安を乱していた。 異教徒とユダヤ人は街に住む為に賄賂を払う事を求められ、教皇自身もまた世俗君主にもみられない程に狩猟、ダンス、演劇や宴会などに耽っていた。教皇は一般犯罪には厳しく対処したが一向に収まる気配はなかった。バチカンの城壁に罪人の死体が吊されない日はなかったと言われる。 オスマン帝国のスルタン・バヤズィト2世の弟ジェムも初めは人質としてローマにやってきて軟禁されていたのだが、アレクサンデル6世の取り巻きの1人になっていた。当時のイタリア半島を巡る政治情勢も決して明るいものではなく、諸外国がイタリア進入の機会を虎視眈々と狙っていた。また、ミラノでは幼いミラノ公ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァの後見人として叔父のルドヴィーコ・スフォルツァが実質的に支配権を持ち、名実共に支配者たる事を画策していた。
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