教皇との抗争とは? わかりやすく解説

教皇との抗争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 10:48 UTC 版)

フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「教皇との抗争」の解説

1235年7月ヴォルムス集会ではハインリヒ廃位とともにフリードリヒイングランド王イザベラとの結婚執り行われた。集会の後にフリードリヒマインツ向かい13世紀最大規模集会開催する。この集会ではホーエンシュタウフェン家ヴェルフェン家和解ラント平和令発布1236年春のロンバルディア同盟への遠征決定された。 ハインリヒ反乱鎮圧されるロンバルディア同盟都市蜂起しフリードリヒの軍はイタリア攻め込んだ1237年11月27日コルテノーヴァ戦い英語版)で、フリードリヒロンバルディア同盟軍に勝利する。しかし、戦後講和難航し同盟中心都市であるミラノ屈服させることはできなかった。フリードリヒ講和拒んだブレシア包囲失敗し、またヴェネツィアジェノヴァ教皇側に加わる。 1237年2月ウィーン集会で、フリードリヒ次子コンラートローマ王就けた1239年グレゴリウス9世フリードリヒ庶子エンツォ与えたサルデーニャ王位剥奪し一度取り消した破門を再び行った皇帝教皇争いイタリアの都市間の抗争都市内部の派閥にも波及し皇帝派教皇派ギベリンゲルフ)に分かれて争った教皇派フリードリヒアンチキリスト呼びフリードリヒ福音かなった清貧説いて教皇派対抗したフリードリヒ教皇が開く公会議参加する者は敵とみなすと脅しをかけて対抗し公会議に向かう聖職者捕らえて投獄した1241年グレゴリウス没しグレゴリウス次に即位したケレスティヌス4世在位17日没したケレスティヌス没後コンクラーヴェでは選挙参加する枢機卿のうち2人フリードリヒ捕らえられ新教皇の選出1年半後にまで延びたこの間フリードリヒローマへ進軍行わず体勢立て直した教皇庁1243年インノケンティウス4世新教皇に選出したフランス王ルイ9世仲介フリードリヒインノケンティウス交渉始まり1244年フリードリヒ捕らえた聖職者釈放される。しかし、ロンバルディア同盟講和反対し、インノケンティウス出身地であるジェノヴァ和平拒んだために交渉難航したインノケンティウス密かにリヨン逃れ1245年6月26日リヨン公会議フリードリヒ廃位彼の封建家臣主従関係解除宣言したインノケンティウス4世フリードリヒ対す十字軍呼びかけ帝国各地反乱勃発した。しかし、教皇権伸張恐れ多くの王と君主破門批判的であり、ルイ9世フリードリヒ同情示していた。 破門宣告対しフリードリヒは「世界鉄槌」として抗戦する意思顕わにする。フリードリヒ直属イスラム教徒兵士率いてイタリア各地転戦し、またゲルマニアでは聖界諸侯によってテューリンゲン方伯ハインリヒ・ラスペコンラート対立するローマ王選出された。 1246年復活祭前日教皇派によるフリードリヒエンツォ暗殺計画発覚する。さらに、パルマ執政官ティバルト・フランチェスコ、トスカーナ前執政官パンドルフォ・ファサネッラら側近たちも計画加担していた。彼らが陰謀加わった理由は明らかではないが、フリードリヒ帝国要職身内固めたために進退に不安を覚えたためだと言われている。逮捕され謀反人たちは目を潰され残忍な身体刑与えられて命を絶たれた。

※この「教皇との抗争」の解説は、「フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)」の解説の一部です。
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