教皇との抗争
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「フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「教皇との抗争」の解説
1235年7月のヴォルムスの集会ではハインリヒの廃位とともに、フリードリヒとイングランド王女イザベラとの結婚が執り行われた。集会の後にフリードリヒはマインツに向かい、13世紀で最大規模の集会を開催する。この集会ではホーエンシュタウフェン家とヴェルフェン家の和解、ラント平和令の発布、1236年春のロンバルディア同盟への遠征が決定された。 ハインリヒの反乱が鎮圧されるとロンバルディア同盟の都市は蜂起し、フリードリヒの軍はイタリアに攻め込んだ。1237年11月27日のコルテノーヴァの戦い(英語版)で、フリードリヒはロンバルディア同盟軍に勝利する。しかし、戦後の講和は難航し、同盟の中心都市であるミラノを屈服させることはできなかった。フリードリヒは講和を拒んだブレシアの包囲に失敗し、またヴェネツィアとジェノヴァが教皇側に加わる。 1237年2月のウィーンの集会で、フリードリヒは次子のコンラートをローマ王に就けた。 1239年にグレゴリウス9世はフリードリヒが庶子エンツォに与えたサルデーニャ王位を剥奪し、一度は取り消した破門を再び行った。皇帝と教皇の争いはイタリアの都市間の抗争、都市内部の派閥にも波及し、皇帝派と教皇派(ギベリンとゲルフ)に分かれて争った。教皇派はフリードリヒをアンチキリストと呼び、フリードリヒは福音にかなった清貧を説いて教皇派に対抗した。 フリードリヒは教皇が開く公会議に参加する者は敵とみなすと脅しをかけて対抗し、公会議に向かう聖職者を捕らえて投獄した。1241年にグレゴリウスは没し、グレゴリウスの次に即位したケレスティヌス4世は在位17日で没した。ケレスティヌス没後のコンクラーヴェでは選挙に参加する枢機卿のうち2人がフリードリヒに捕らえられ、新教皇の選出は1年半後にまで延びた。この間フリードリヒはローマへの進軍を行わず、体勢を立て直した教皇庁は1243年にインノケンティウス4世を新教皇に選出した。 フランス王ルイ9世の仲介でフリードリヒとインノケンティウスの交渉が始まり、1244年にフリードリヒが捕らえた聖職者が釈放される。しかし、ロンバルディア同盟は講和に反対し、インノケンティウスの出身地であるジェノヴァも和平を拒んだために交渉は難航した。インノケンティウスは密かにリヨンに逃れ、1245年6月26日のリヨン公会議でフリードリヒの廃位と彼の封建家臣の主従関係の解除を宣言した。インノケンティウス4世はフリードリヒに対する十字軍を呼びかけ帝国の各地で反乱が勃発した。しかし、教皇権の伸張を恐れる多くの王と君主は破門に批判的であり、ルイ9世もフリードリヒに同情を示していた。 破門の宣告に対し、フリードリヒは「世界の鉄槌」として抗戦する意思を顕わにする。フリードリヒは直属のイスラム教徒の兵士を率いてイタリア各地を転戦し、またゲルマニアでは聖界諸侯によってテューリンゲン方伯ハインリヒ・ラスペがコンラートに対立するローマ王に選出された。 1246年の復活祭の前日、教皇派によるフリードリヒとエンツォの暗殺計画が発覚する。さらに、パルマ執政官ティバルト・フランチェスコ、トスカーナの前執政官パンドルフォ・ファサネッラら側近たちも計画に加担していた。彼らが陰謀に加わった理由は明らかではないが、フリードリヒが帝国の要職を身内で固めたために進退に不安を覚えたためだと言われている。逮捕された謀反人たちは目を潰され、残忍な身体刑を与えられて命を絶たれた。
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