教皇登位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/23 10:24 UTC 版)
「ケレスティヌス5世 (ローマ教皇)」の記事における「教皇登位」の解説
1292年4月4日に教皇ニコラウス4世が死去し、後継者の人選をめぐってコンクラーヴェ(教皇選挙会議)が開催されたものの、有力な枢機卿や諸侯や諸君主の思惑から紛糾して後継教皇の選出が出来ず、教皇が空位という事態が2年も続くことになる。1294年3月になってナポリ国王カルロ2世がコンクラーヴェが開催されているペルージャ(ウンブリア州ペルージャ県)に赴き、その場に会した枢機卿たちに4人の教皇候補を記したメモを示して後継選出を促したものの、長きにわたる紛糾に疲弊していたせいもあって、枢機卿は特に関心を示そうともしなかった。ところがカルロがペルージャを発った後にローマで暴行事件が起こり、そこに(コンクラーヴェに出席していなかった)枢機卿らが関わったことで殺人事件から暴動へとエスカレートする。 この事態を見てピエトロ・ダ・モローネは、ペルージャに出席していた枢機卿の一人に手紙を出し、すぐにでも教皇を選出しなければコンクラーヴェに会する者どもには必ずや神罰が下るであろうと警告した。手紙を受け取った枢機卿はコンクラーヴェにこの手紙を披露し、いっそピエトロ自身に教皇になってもらったらどうかと周囲に提案、それを受けてその場にいた全員がその案を支持した。この展開はピエトロ本人にも意外であり、そのために一時は教皇位の辞退を望んで修道院から退去しようとする。だが、ナポリ王カルロに制止されて教皇に就任するよう懇願され、ハンガリー王のアンドラーシュ3世やリヨンの大司教の説得によって、ようやく教皇になることを承知して戴冠式をおこなった。
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