教皇選出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/23 06:38 UTC 版)
「グレゴリウス7世 (ローマ教皇)」の記事における「教皇選出」の解説
1073年、アレクサンデル2世が死去すると、イルデブランドが教皇に選出された。彼はグレゴリウス7世を名乗り、まだ助祭であったため司祭叙階を受けると6月30日に教皇位についた。彼がまず、取り組んだことは先任者たちと叙任権をめぐって争った神聖ローマ帝国皇帝との関係改善であった。当時、ハインリヒ3世の息子で23歳のハインリヒ4世が王位についていたが、ドイツ諸侯の反乱にあってその地位を脅かされていた。教皇はいまがチャンスであると考えた。 実際ハインリヒ4世は窮地に追い込まれていた。ドイツ諸侯の非協力に加え、ザクセン公の反乱によって教皇の後ろ盾が絶対に必要になっていたのである。このため1074年5月にニュルンベルクで教皇使節に対してそれまでの叙任権をめぐる教皇への挑戦的態度に関してゆるしを乞い、その場で教皇への服従と教会改革への協力を約束した。が、状況が好転し、1075年にザクセン公をホーエンブルクで破ると、ハインリヒ4世は教皇との約束を反故にして再びイタリア半島に影響力を及ぼそうと画策しはじめた。 ハインリヒ4世がミラノなどの諸都市で既存の司教に対して自分の息のかかった司祭を対立司教に立てるなど、俗人による叙任を禁じた教皇に対して露骨に挑戦してきたため、教皇は再三対立司教の叙任の中止を要請した。ハインリヒ4世は北イタリアにおける自らの影響力を高めるために次々と手をうった。エベルハルト公をパテリニ派討伐に向かわせ、子飼いの司祭テダルドをミラノ司教とし、ノルマン公ロベルト・イル・グイスカルドと手を結んだのである。グレゴリウス7世は書簡を送ってハインリヒ4世が度々約定を違えることや破門された人々をブレーンに置いていることを批判し、教会による懲罰だけでなく、王位の剥奪まで示唆して警告した。グレゴリウス7世自身もチェンチウスという強力な敵対者によって苦しめられていた。すぐに解放されるがクリスマスには彼の手で幽閉の憂き目にあっている。
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