教皇就任
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「ハドリアヌス4世 (ローマ教皇)」の記事における「教皇就任」の解説
帰任後、ニコラスはその業績を教皇アナスタシウス4世(在位:1153年 - 1154年)に大いに讃えられた。アナスタシウス4世の死後、1154年12月3日にニコラスは満場一致で次期教皇に指名され、ローマ教皇ハドリアヌス4世として即位した。 ハドリアヌス4世が教皇に就任した当時、ローマ教会は深刻な内憂外患を抱えた状態であった。1152年、ホーエンシュタウフェン朝初代のローマ王コンラート3世は、その死に際して実子ではなく、英明で知られ、のちに中世騎士の理想像ともされた甥のフリードリヒ1世(バルバロッサ、赤髭王)を神聖ローマ帝国の皇帝後継者として指名した。皇帝となったフリードリヒ1世は1154年以降アルプス山脈を越えてイタリア遠征を行い、教皇に戴冠を求める一方で教皇領内への勢力拡大をもくろんでいた。フリードリヒ1世は、神聖ローマ皇帝の諸権利をローマ法によって基礎づけ、諸侯に対する皇帝権の確立を目指すとともに、「ローマ皇帝」の称号にふさわしく、自身のイタリアでの皇帝権の回復に強い意志を持って、「ローマ皇帝」の宗主権を認めない北イタリアの諸都市を懲罰しようとしたのである。 南からは、ノルマン朝のグリエルモ1世が教皇に対しシチリア王権の承認を求めると同時にやはり教皇領を脅かし、さらに、この情勢を好機とみた東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の皇帝マヌエル1世コムネノスがローマ帝国の衣鉢を継ぐ正統としてイタリア支配の野望を抱きつつ、その一方で教皇とフリードリヒ1世の両方にシチリア王国に対する共同戦線の展開を持ちかけるという複雑な状況にあった。その上、足下のイタリアでも反教皇派の指導者、「アルノルド・ダ・ブレシア」という学僧によって率いられた反ローマ運動が起こっていた。 ハドリアヌス4世はまず、フリードリヒ1世と手を組んで共和主義者アルノルド・ダ・ブレシアと対決し、その排除にかかった。ローマの町は混乱に陥っており、枢機卿が白昼に襲撃されるという事件が起きていた。ハドリアヌス4世は前例のないローマに対する聖務禁止(インターディクト)処分を1155年の聖枝祭直前に決定する。これを受けてローマの元老院はアルノルドを追放した。
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教皇就任
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「ベネディクト16世 (ローマ教皇)」の記事における「教皇就任」の解説
ヨハネ・パウロ2世の健康状態が悪化するにつれ、教皇の側近であり実質的に教皇庁をとりしきっていたラッツィンガーは後継教皇の最有力候補とみなされるようになった。教皇就任前の2005年4月初頭には『タイム』誌の「世界でもっとも影響力のある100人」の一人に選ばれている。 2005年4月19日、コンクラーヴェは2日目にしてラッツィンガーを新教皇に選出。コンクラーヴェの動向を見守りながらサン・ピエトロ大聖堂前に集まっていた人々の前にメディナ・エステヴェス枢機卿があらわれ、数言語で群集に呼びかけ、ラテン語で「新教皇としてラッツィンガー枢機卿が選ばれ、ベネディクト16世という教皇名を選んだ」ということを告げた。続いてバルコニーに姿を現した新教皇はイタリア語で群集に挨拶し、最初の祝福 (benedictio) を与えた。ベネディクト16世は教皇選出時78歳であったが、これは1730年のクレメンス12世以来の最高齢での選出である。またドイツ人教皇は11世紀のウィクトル2世以来950年ぶりである。 サン・ピエトロ広場の入り口あたりから、右前方、広場の外に建物が見えるが、その建物の最上階の右から2つ目と3つ目の部屋が教皇の部屋であり、週に一度、広場に向かって手を振る。
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