教皇就任まで
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「シクストゥス5世 (ローマ教皇)」の記事における「教皇就任まで」の解説
グロッタンマーレ(現マルケ州)出身のペレッティは貧しい一家の出身であった。父は庭師であり、彼自身も豚の世話をして生計をたてていた。ただ、当時の人々の生活レベルを考えれば、このことは現代のわれわれが考えるほど驚くべきことではない。やがてモンタルトのフランシスコ会の修道院に入り、すぐに説教師・弁証家として頭角を現した。 1552年ごろ、フランシスコ会の保護者でもあったロドルフォ・ピオ・ダ・カルピ枢機卿(1500年 - 1564年)やギスリエリ枢機卿(後のピウス5世)、カラファ枢機卿(後のパウルス4世)の目にとまったことで、その後の栄進が保障されることになった。ヴェネツィアの教皇巡察師に抜擢されたが、あまりに職務に忠実で高圧的であったためトラブルが頻発し、1560年にヴェネツィア政府に解任を要求される。フランシスコ会の総代理を務めた後、1565年にボンコンパーニョ枢機卿(後のグレゴリウス13世)に率いられたスペインへの使節団のメンバーに選ばれた。使節団はトレドのカランツァ大司教にかけられた異端嫌疑の調査に向かったのである。 ピウス5世が教皇になるとローマに呼び返されてフランシスコ会の教皇総代理に選ばれ、1570年にグレゴリウス13世のもとで枢機卿にあげられてモンタルト枢機卿と呼ばれるようになる。そこで彼は教皇庁の職務の第一線を退いてエスクイリーノの丘にドメニコ・フォンターナによって建てられた、ディオクレティアヌス帝の浴場を見下ろす邸宅の整備に専念するようになった。やがてペレッティ自身が教皇に選ばれると、建築事業にもさらに力が入り、既存の住宅を撤去して、4つの新街路を設置した。敷地内には2つの大きな邸宅、「ディ・テルミニ」とも呼ばれたシスティノ宮殿とパラッツェット・モンタルト・エ・フェリチェとよばれた邸宅があった。この工事のために転居を余儀なくされた住民は憤懣やるかたなかった。1869年に教皇のために鉄道がひかれ、駅(テルミニ駅の前身)が設置されることが決まったことで、これらの施設も取り壊されることになった。
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教皇就任まで
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「アレクサンデル6世 (ローマ教皇)」の記事における「教皇就任まで」の解説
ロドリーゴはバレンシア王国・バレンシアのシャティヴァ出身である。 ボローニャ大学で法学を学び、伯父に引き立てられる形で司教、枢機卿、教皇庁財務部副院長となった。ネポティズムと呼ばれる親族登用主義はこの時代のカトリック教会を代表する悪習であった。彼は以後、5人の教皇に仕える中で、経験と富、人脈を形成していった。 若い頃のロドリーゴにはまだ節度があり、それほど派手な生活をしているわけでもなかった。ただ、当時の高位聖職者達のように彼のモラルは堕ちきっており、金と女に情熱を傾けていた。この頃には、既に数人の子供が愛人達から生まれていた。1458年には品行の悪さをピウス2世から叱責されている。 インノケンティウス8世が没すると、教皇位は3人の有力候補によって争われることになった。ロドリーゴ・ボルジア枢機卿、アスカニオ・スフォルツァ枢機卿、そしてジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ枢機卿(後の教皇ユリウス2世)である。当初はイタリア人の支持を得ていたローヴェレが有利と見られていたが、ロドリーゴはアスカニオ・スフォルツァを含む多くの枢機卿を買収する事に成功した。 こうしてロドリーゴが教皇アレクサンデル6世を名乗ることになる。このコンクラーヴェにおける贈収賄は広く世に知られ、彼が三重冠を金で買ったと非難される原因になった。
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