生い立ちから教皇選出まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/01 17:01 UTC 版)
「ウィクトル2世 (ローマ教皇)」の記事における「生い立ちから教皇選出まで」の解説
神聖ローマ帝国下のシュヴァーベン地方(現在のドイツ南西部)のカルフ出身。父は神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世の親族であるシュヴァーベンのカルフ伯ハルトヴィヒ。前名はゲプハルト・フォン・カルフ。24歳でアイヒシュテットの司教に任命され、ハインリヒ3世を補佐し、重臣の一人となった。 教皇レオ9世が1053年にノルマン人との戦争で囚われ、翌年に獄死すると、ローマ教皇庁の使者イルデブラント(後のグレゴリウス7世)がマインツを訪れ、ハインリヒ3世に教皇後継の推挙を求めた。皇帝から推薦を受けたゲプハルトは、1054年9月に正式に指名されウィクトル2世を名乗り、ローマに移って1055年4月13日に戴冠した。
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生い立ちから教皇選出まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/23 06:38 UTC 版)
「グレゴリウス7世 (ローマ教皇)」の記事における「生い立ちから教皇選出まで」の解説
トスカーナ地方ソバーナ(現在はグロッセート県ソラーノの一部)の寒村で生まれたイルデブランドは、勉学のため幼くしてローマへ送られ、伯父が院長をしていた聖マリア修道院に預けられた。世の中のあらゆる矛盾が襲い掛かる貧農の出で教会組織の立身・クリュニー改革の実現を誓った彼は、不撓不屈の筋金入りの精神に鍛えられた。長じて教皇グレゴリウス6世の側近にひきたてられたが、教皇が神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世との争いによってローマを追われるとイルデブランドも彼に従った。もうイタリアに戻ることはないと思っていたイルデブランドであったが、ケルンで勉学を続けたことが後の教皇としての職務において役立つことになる。 教皇レオ9世に引き立てられ、再びローマで働き始めるとフランス派遣教皇使節として当時論議になっていたトゥールのベレンガリウスの聖体に関する教説についての問題を解決するなどの活躍を見せた。その後も歴代の教皇に仕えてドイツ宮廷などに派遣され、ステファヌス10世没後にローマの貴族たちが教皇選出権に対する影響力を強めようとした時に事態を打開するなど大きな功績を残した。ニコラウス2世とアレクサンデル2世の時代には教皇庁において教皇の側近中の側近として活躍した。この時代は教皇選出において枢機卿団の思惑が錯綜し、世俗権力が介入しやすい状況であったため、特に神聖ローマ帝国などの君主によって教皇選挙が左右され、対立教皇が立てられるなど難しい時代であった。
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