生い立ちから海軍技術研究所の初期までとは? わかりやすく解説

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生い立ちから海軍技術研究所の初期まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 22:20 UTC 版)

伊藤庸二」の記事における「生い立ちから海軍技術研究所の初期まで」の解説

1901年明治34年3月5日千葉県夷隅郡御宿村(現・御宿町)に、御宿尋常高等小学校伊藤鬼一郎の次男として誕生伊藤家御宿郷の名主家系だった。旧制第一高等学校卒業後、東京帝国大学1年生時に海軍委託学生になり、1924年大正13年3月同大工学部電気工学科卒業翌月海軍造兵中尉技術科士官13期)に任官する当時欧米電波技術顕著に発展していたことから海外技術者留学させることとなり、1926年8月箕原勉推薦によりその候補選ばれた。1926年11月ドイツ入りし、ドイツ語習得後、1927年昭和2年4月ドレスデン工科大学にてハインリッヒ・バルクハウゼン教授の下で学ぶ。なお、留学先については八木秀次相談して決めたという。同大学にて無線真空管研究をし、卒業論文二極真空管理論並びに超低周波発生」をまとめ、1929年7月博士号取得1929年8月飛行船ツェッペリン同乗したことをきっかけ草鹿龍之介交流持ちその後草鹿相談に応じて助言をしていたという。伊藤は、電波技術索敵攻撃兵器応用すべきと早くから訴えていた。 帰国後は海軍技術研究所電気研究部技術官となり、振管の研究を行う。この研究成果は後に論文磁電管研究」として1936年東京帝国大学提出し同年12月工学博士号が授与されるまた、電離層研究にも取り組んだ地上から発した電波電離層屈折反射するフェージング現象課題となり、1932年パルス波用いた独自の測定装置作成した本機用いた電離層定期観測国内初のもので、1932-1933年の第2回国際極年では学術研究会議電波研究委員会通じて測定結果全世界発表された。また、伊藤測定した記録は、万国無線科学協会URSI)の事業として、毎週1回1941年12月まで全世界放送された。 電波伝播研究進め、この観測研究軍事用短波通信波長選択不可欠なのである理解され始める。1937年には関係者により波長選択図表完成し1942年8月伊藤はこれへの貢献から海軍技術有功章授与される

※この「生い立ちから海軍技術研究所の初期まで」の解説は、「伊藤庸二」の解説の一部です。
「生い立ちから海軍技術研究所の初期まで」を含む「伊藤庸二」の記事については、「伊藤庸二」の概要を参照ください。

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