生い立ちから独立まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 02:03 UTC 版)
1921年、北海道月寒の畜産家・吉田善助(善助の父・善太郎の項を参照)の三男として生まれる。善助は酪農家として日本に初めてホルスタイン種の乳牛を導入した人物でもあり、1928年から白老町社台地区に2000haの土地を購入しサラブレッド生産に着手していた。善哉は1940年、空知農業学校畜産科を卒業後、社台牧場・千葉富里分場の場長を任された。しかし同年より始まった太平洋戦争の戦況悪化と共に、従業員が次々と徴兵され、善哉はひとりで牧場を切り盛りすることを余儀なくされた。やがて善哉も健康を損ない、結核を患う。1年の療養を経て回復したが、1944年、今度は二人の兄が病身となったため分場は一時閉鎖され、白老の本場に戻る。翌1945年1月に父・善助が死去。白老・富里両場の管理を担うこととなった。 善助死去から7ヶ月後の8月、太平洋戦争が終結しGHQが進駐する。マッカーサーの農地解放政策により、兄・善一の名義であった千葉富里の分場40haのうち、36haが地主不在として接収された。善哉はこれに対し異議申し立てを行い、8年後の1953年、接収された土地を払い下げの形で取り戻す。2年後の1955年に母・テルが死去したことに伴い、社台牧場千葉富里分場を社台ファームと改め、8頭の繁殖牝馬をもって社台牧場から独立した。
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