生い立ちから海軍時代とは? わかりやすく解説

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生い立ちから海軍時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 17:06 UTC 版)

鈴木貫太郎」の記事における「生い立ちから海軍時代」の解説

1868年1月18日慶応3年12月24日)、和泉国大鳥郡伏尾新田現在の大阪府堺市中区伏尾で、当時下総関宿藩飛地)に関宿藩士で代官鈴木由哲と妻・きよの長男として生まれる。1871年明治4年)に本籍地である千葉県東葛飾郡関宿町(現・野田市)に居を移す。 1877年明治10年)、群馬県前橋市転居し厩橋学校前橋中学攻玉社経て1884年明治17年)に海軍兵学校入校14期)。1895年明治28年)、日清戦争従軍第三水雷艇所属第五号型水雷艇第6号艇長として威海衛の戦い参加し発射管不備もあって夜襲では魚雷発射失敗したものの(戦後部下の上崎辰次郎上等兵曹責任感じ自決している)、湾内防材破壊偵察などに従事したその後海門航海長として台湾平定参加次いで比叡金剛経て1897年明治30年海軍大学校入校砲術学んだ後、1898年明治31年甲種学生として卒業1888年明治21年)に、旧会津藩士・大沼親誠の娘・とよと結婚した。とよの姉は出羽重遠夫人である。 ドイツ駐在中だった1903年明治36年9月26日鈴木中佐昇進したが、一期下の者たちより低いその席次 に腹をたて退役まで検討したが、「日露関係緊迫してきた、今こそ国家のためにご奉公せよ」という手紙父親から受けたことにより、思いとどまったという。同年末に日本海軍対ロシア戦のため、アルゼンチン発注イタリアにおいて建造され竣工間近であった装甲巡洋艦「リバタビア」を急遽購入し、同艦は「春日」と命名され鈴木がその回航委員長任じられた。 「春日」とその僚艦日進」が日本近付いた1904年明治37年2月日本仕掛ける形で日露戦争始まった日本到着した鈴木そのまま春日」の副長任命され黄海海戦にも参加している。その後第五駆逐隊司令経て、翌1905年明治38年1月第四駆逐隊司令転じ持論だった高速近距離射法実現するために猛訓練行い部下から鬼の貫太郎、鬼の艇長鬼貫呼ばれたが、自らの駆逐隊敵旗艦である戦艦クニャージ・スヴォーロフ」、同「ナヴァリン」、同「シソイ・ヴェリキィー」に魚雷命中させるなどの戦果挙げ日本海海戦勝利貢献した日露戦争後海軍大学校教官時代には駆逐艦水雷艇射法について誤差猶予論、また軍艦射法について射界論を説き海軍水雷術の発展理論的に貢献している。この武勲により、功三級金鵄勲章受章する1912年大正元年)、妻とよが33歳死去1914年大正3年)、海軍次官となり、シーメンス事件事後処理を行う。翌年1915年(大正4年)、東京女子高等師範学校付属幼稚園教員だったが、同幼稚園児童を孫に持っていた菊池大麓推薦により、裕仁教育係勤めていた足立たか再婚1923年大正12年)、海軍大将となり、1924年大正13年)に連合艦隊司令長官に、翌年海軍軍令部長就任

※この「生い立ちから海軍時代」の解説は、「鈴木貫太郎」の解説の一部です。
「生い立ちから海軍時代」を含む「鈴木貫太郎」の記事については、「鈴木貫太郎」の概要を参照ください。

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