生い立ちから渡来前
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1592年12月7日、福建省福州府福清県万安郷霊得里東林に生まれる。俗名は林曽炳。3人兄弟の末っ子。父は諱を徳竜といい、在田と号した。 6歳の時、父徳竜、湖南・湖北方面におもむき、以後消息を絶つ。 10歳で仏教に発心する(16歳という説もあり)が、出家修道は母に許されなかった。 20歳の時、母や長兄から妻帯を勧められるが「父の行方も知らないでいるのは子として不幸である。父に会ってからのちに妻帯してもおそくない」といって断った。 21歳の時に消息不明の父を浙江に捜したが果たせなかった。 23歳の時、普陀山(浙江省)の潮音洞主のもとに参じ、在俗信者でありながら1年ほど茶頭として奉仕した[疑問点 – ノート]。 28歳の時、母死す。印林寺で黄檗山の僧・鑑源興寿に会い、古黄檗で出家するよう勧められる。 29歳で、生地である福清の古刹で、黄檗希運も住した黄檗山萬福寺の鑑源興寿の下で得度した。 33歳の時、金粟山広慧寺で密雲円悟に参禅し、密雲が萬福寺に晋山するに際して、これに随行した。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}35歳で[要出典]黄檗山の費隠通容から印可を受けた。38歳の時、密雲は弟子の費隠通容に萬福寺を継席して退山したが、隠元はそのまま萬福寺に残り、45歳で費隠に嗣法した。 その後、萬福寺を出て獅子巌で修行していたが、費隠が退席した後の黄檗山の住持に招請されることとなり[要出典]、明崇禎10年(1637年)に晋山し、黄檗山の主を7年間つとめた。後に退席したが、明末清初の動乱が福建省にも及ぶ中、順治3年(1646年)に再度晋山し、再び9年間つとめた。
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