生い立ちから独立戦争まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 08:25 UTC 版)
「ジェイムズ・サリバン (州知事)」の記事における「生い立ちから独立戦争まで」の解説
ジェイムズ・サリバンは1744年4月22日に、当時はマサチューセッツ湾直轄植民地、現在はメイン州のバーウィックで、ジョン・サリバンとマージェリー・ブラウン・サリバン夫妻の四男として生まれた。サリバンの父はアイルランドのリムリック県の出身であり、母は父が乗って来た船にのっていた子供だった。母が成長したときに、父が求婚して結婚した。父はバーウィックで学校の教師、かつ農夫だった。サリバンは家で教育を受けた。子供時代の事故で足が砕け、軍人になりたいという望みが絶たれてしまった。若い頃にてんかんにも苦しめられ、人生の残りも概して穏やかだが発作があった(ただし長時間続くこともあった)。足の傷が快復しているときに、大いに本を読み、ラテン語や古典を学んだ。兄のジョンは法律を学んでおり、弟にも法律の本を渡し訓練を行うよう指示を受けていた。サリバンは現在のニューハンプシャー州ダーラムで兄の法律実務について法律を勉強し、最終的にマサチューセッツの法廷弁護士として認められた。現在のメイン州ジョージタウンで法律実務を始め、それから間もなくビデフォードに移り、町で最初の弁護士になった。1768年、サリバンはヘッティ・オディオーンと結婚した。ヘッティはニューハンプシャー州ポーツマスで成功した商人の娘だった。 サリバンの法律実務は繁盛し、30歳までにヨーク郡でも指導的な市民の一人になっていた。ボストンを本拠にする商人の事業の代理人として働くことで、法律実務の収入を補った。その商人の中にはボストンでも最大級に裕福な者だったジョン・ハンコックがいた。土地の権利を守る弁護士としての仕事に対して、サリバンは1773年に弁護した権利の1つの中で土地を提供された。サリバンはこれを受け取り、父の生まれ故郷にちなんで、リムリック・プランテーションと名付け、組織化した。1775年、サリバンは町への入植を助け(自ら開墾を支援した)、1787年3月6日にはリムリックの町として法人化された。ジョン・アダムズに拠れば、サリバンは仕事の報酬を使って農地や工場など地元の不動産に投資していた。
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