生い立ちから第一次世界大戦まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 15:23 UTC 版)
「アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン」の記事における「生い立ちから第一次世界大戦まで」の解説
男爵を意味する「フライヘア」の苗字が示すように、シレジア地方ナイセ(現在のポーランド・ニサ)近郊にあった荘園グート・ブルーメンタールで元貴族の家に生まれる。少年時代は探検家を夢見たが、ブレスラウのギムナジウムを放校され陸軍幼年学校に入学、12歳で軍人への道を歩み始める。 オルデンブルクの第91歩兵連隊に配属されるが、軍隊生活に飽きて当時行われていた米西戦争でアメリカ軍に投じることを考える。しかし1900年に義和団の乱が発生すると、彼は志願して中国に派遣された。中国からの帰還後オルデンブルクの名家の娘と結婚し、次いでベルリンの参謀本部に異動となる。1904年の日露戦争の勃発をきっかけにベルリン大学東洋学部に派遣され、東アジアにおける日本の勢力伸長と日本語を研究する。1910年に来日、日本軍研究のため名古屋の陸軍歩兵第33聯隊に滞在し、1912年5月から1914年の第一次世界大戦勃発まで東京のドイツ大使館で駐在陸軍武官を務めた。この際に崩壊寸前であった清朝と比較して日本の規律ある国民生活と軍隊に好感を持った。 第一次世界大戦中は西部戦線や東部戦線でさまざまな部隊の参謀を務め、ヴェルダンの戦いでは兵站を担当。次いでトルコに異動となり、カフカス戦線で戦うトルコ第2軍兵站部長、トルコ第7軍参謀長を務める。また当時オスマン帝国の支配下にあったパレスチナ戦線ではプール・ル・メリット勲章を受章した。トルコではハンス・フォン・ゼークト(後に参謀総長)やトルコ第6軍参謀長であったフランツ・フォン・パーペン(後に首相)などの知遇を得た。
※この「生い立ちから第一次世界大戦まで」の解説は、「アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン」の解説の一部です。
「生い立ちから第一次世界大戦まで」を含む「アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン」の記事については、「アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン」の概要を参照ください。
- 生い立ちから第一次世界大戦までのページへのリンク