生い立ちから神学生時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 01:51 UTC 版)
「フリードリヒ・ヘルダーリン」の記事における「生い立ちから神学生時代」の解説
ヘルダーリンは1770年3月20日、ネッカー河畔の町ラウフェンに生まれた。父ハインリヒ・フリードリヒ・ヘルダーリン(1736年 - 1772年)は尼僧院の説教師、母ヨハンナ・クリスティアーナ・ヘルダーリン(旧姓ハイン、1748年 - 1828年)は牧師の娘であった。ヘルダーリンは長男であり、父母はその後2子をもうけたが、ヘルダーリンがまだ2歳3ヵ月のときに父が卒中で死去した。この2年後、母は官吏ヨハン・クリストフ・ゴック(1748年 - 1779年)と再婚し、一家はゴックの勤め先であるニュルティンゲン(ドイツ語版)に移住した。母とゴックとの間には4人の子が生まれたが、この義父も結婚から7年後に高熱がもとで死去した。なお、母ヨハンナがもうけた7人の子供のうち成長しえたのはヘルダーリンと2歳下のハインリーケ、異父弟のカールのみで、残りの4人はまだ幼いうちに死去している。 ヘルダーリンは1779年からニュルティンゲンのラテン語学校に通った後、1784年10月に国家試験を受けてデンケンドルフ(ドイツ語版)初等僧院学校に入学、1786年から上級課程にあたるマウルブロン校に通った(マウルブロン校はおよそ100年後にヘルマン・ヘッセが通う神学校であり、ヘッセはここからの脱走の過程を『車輪の下』で描いている)。在学時ヘルダーリンはクロプシュトック、シラー、オシアンなどの詩を読み、自らも多くの詩を作った。ことにシラーに関しては、その詩風のほかに美学論文からも多大な影響を受けている。 1788年、テュービンゲン大学神学校に入学する。同級生であったヘーゲル、シェリングと親交を結んだ。2人とともにカント、ライプニッツ、スピノザの哲学を学び、とくにヘルダーリンはフリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービの『スピノザ書簡集』を通じてスピノザの汎神論に感銘を受けている。1789年にはフランス革命に感動し「自由賛歌」「友情賛歌」などの長詩を書いた。 1791年、ゴットホルト・フリードリヒ・シュトイドリーンによる『1792年版 詩神年鑑』に「調和の女神への賛歌」など数編の詩が掲載され、詩人としてのデビューを飾る。翌年の『1793年版 詩歌選』にも多数の参加が掲載された。1793年5月には『ヒュペーリオン』の第一稿(現存しない)をシュトイドリーンの前で朗読している。
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