生い立ちから花形歌手になるまで
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「メアリー・ガーデン」の記事における「生い立ちから花形歌手になるまで」の解説
スコットランドのアバディーンに生まれる。9歳の時に家族に連れられ渡米し、マサチューセッツ州チコピーに移住するが、ほんの数年でコネチカット州ハートフォードに引っ越し、1888年にはイリノイ州シカゴに転居した。新人歌手として将来性が嘱望されると、富豪デイヴィッド・メイヤー夫妻の経済的な援助を受けて、シカゴのセイラ・ロビンソン=ダフに入門することができた。1896年には、引き続きメイヤー夫妻の援助のもとにパリに留学、一時期トラバデロやリュシアン・フュジェールに入門するなどしてさらに学習を続け、ジャック・ブーイやジュル・シュヴァリエ、マチルデ・マルケージにも師事している。1899年には支援者からの後ろ盾を失ったものの、米国人ソプラノ歌手のシビル・サンダーソンに師事するようになる。サンダーソンはマスネや、オペラ=コミック座の当時の支配人アルベール・カレに引き合わせた。カレはガーデンの声に感銘を受け、1900年にガーデンをオペラ=コミック座の出演者名簿に加えた。1900年4月10日にオペラ=コミック座においてギュスターヴ・シャルパンティエの《ルイーズ》の主役を演じ、オペラ界にデビューを果たす。ガーデンはルイーズ役を稽古していたとはいえ、土壇場で病気のマルト・リオトンの代役に抜擢されたため、初舞台が事業計画に組まれていたわけではなかった。 デビューを果たすと、たちまちオペラ=コミック座の主役級のソプラノの一人となった。1901年には2つの世界初演で主演した。一つはリュシアン・ランベールの《ラ・マルセイエーズ》のマリー役であり、もう一つはガブリエル・ピエルネの《タバランの娘(La fille de Tabarin)》のディアーヌ役である。同年エクス=レ=バンにおいて、マスネの《タイス》のタイトルロールを歌い、モンテカルロ歌劇場ではマスネの《マノン》とアンドレ・メサジェの《お菊さん》のタイトルロールを演じた(すべてサンダーソンの特訓を受けている)。1902年には、クロード・ドビュッシーの指名を受けて、《ペレアスとメリザンド》の初演でヒロインを演じ、ガーデンの演技は評論家から称賛された。リヒャルト・シュトラウスの楽劇《サロメ》の仏語版では、主役を創唱して大旋風を捲き起こした。 《ペレアスとメリザンド》の成功に続いて、まだパリで公演に出演中に、一時的にロンドンに渡り、コヴェント・ガーデン王立歌劇場で歌った。1902年から1903年までのコヴェント・ガーデンの定期では、《マノン》のタイトルロールやグノーの《ロメオとジュリエット》のヒロイン、同じくグノーの《ファウスト》のマルグリット役として出演している。しかしながらガーデンはロンドンが気に入らず、2度とロンドンでは契約しないことに決めた。一方、この頃オペラ=コミック座では、マスネの《グリセリディス(フランス語版)》のタイトルロール(1902年)や、ジュゼッペ・ヴェルディの《椿姫》の主人公ヴィオレッタ(1903年)、クサヴィエ・ルルーの《王妃フィアメット(La reine Fiammette)》(1903年)の王妃役、サン=サーンスの《エレーヌ》の主役(1905年)を演じた。また、1905年には、モンテカルロ歌劇場におけるマスネの《シェリュバン(英語版)》の世界初演で主人公を演じている。翌1906年にはオペラ=コミック座に復帰して、カミーユ・エルランジェの《アフロディーテ》の世界初演でクリシス役を演じた。
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