詩風
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戴復古の作品は、江湖派の流れを汲み、詩風は永嘉の四霊が提唱した晩唐の詩に学んだものであるが、政治批判を含む社会詩も多く作っている。 後に江西派の風格も混入し、「自ら嘲(あざけ)る」という詩には、 自ら嘲る原文書き下し文賈島形模原自瘦 賈島の形模 原(も)と自ら痩せ 杜陵言語不妨村 杜陵の言語 村なるを妨げず とあり、賈島は江湖派の「二妙」の中の一「妙」であり、杜甫は江西派のいわゆる「一祖三宗」の中の一「祖」である。この詩の2句は、2つの流派の仲裁をしようという彼の企てが示されている。 戴復古の詩集は、『石屏詩集』(せきへいししゅう)といい、趙汝讜(ちょうじょとう)が130首を選んだのちに始まり、今は10巻。『石屏詩集』には、放浪の境涯をうたう詩が多い。他に、『続集』4巻。『石屏詩』がある。
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詩風
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白居易は多作な詩人であり、現存する文集は71巻、詩と文の総数は約3800首と唐代の詩人の中で最多を誇り、詩の内容も多彩である。若い頃は「新楽府運動」を展開し、社会や政治の実相を批判する「諷諭詩」を多作したが、江州司馬左遷後は、諷諭詩はほとんど作られなくなり、日常のささやかな喜びを主題とする「閑適詩」の制作に重点がうつるようになる。白氏文集に収められる諷諭詩については、「元九に与ふる書」中において、彼自身によってその意義が明言されている。そこでは、『詩経』を根元とする「詩道」が衰えていく中で、諫官たる左拾遺の職を授かって諫言を啓奏する立場に就いたとき、直接指摘して延べにくい事を『詩経』の精神に則って詠歌したことを語り、しかしそれらの詩が人々の誹謗を受けたことなどを顧みている。さらに、自身の詩を「諷諭」「閑適」「感傷」「雑詩」の四つに分類し、「諷諭詩」を「兼済(己の能力を発揮する道が開けているとき、そのような状況や立場にある時には広く手天下を救済することに努めるべきであるとすること)の志」に基づいて作ったもの、「閑適詩」を「独善(自分が世に容れられないときには名利に恬淡として自身を良く修めることに努めるべきであるとすること)の義」を詠んだものであると明示した上で、自分の詩作品の中で「諷諭詩」を最も重要なもの、それに次いで意義のあるものが「閑適詩」であると述べ、「感傷」「雑詩」と区別している。「感傷詩」の代表作は「長恨歌」「琵琶行」。他にも、無二の親友とされる元稹や劉禹錫との応酬詩も名高い。 彼の「閑適詩」は日本において、理想の生活として愛され、様々な文学に引用された。一方、彼自身が一番重要とした「諷諭詩」もまた、菅原道真や紫式部をはじめとする平安時代の知識人に重く受けとめられた。 いずれの時期においても平易暢達を重んじる詩風は一貫しており、伝説では詩を作るたび文字の読めない老女に読んで聞かせ、理解できなかったところは平易な表現に改めたとまでいわれる(北宋の釈恵洪『冷斎詩話』などより)。そのようにして作られた彼の詩は、旧来の士大夫階層のみならず、妓女や牧童といった人々にまで愛唱された。また、白居易の詩風に関して渡辺秀夫氏は、「四季折々に循環する風物に取材しながらその推移しゆく季節のなかに直進して再帰しえない時間をみて、ひるがえって我が身の人生の老いやすさを詠嘆する作例がきわめて多く、これが白詩の抒情様式の一大水脈をなしているといっても過言ではない」と述べている。
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詩風
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山本北山に経史を学んだ。北山は袁中郎の公安派(中国語版)を奉じて古文辞学的な作詩法を非難し、天明3年(1783年)『作文志彀』『作詩志彀』を刊行すると、宗真もこれを携えて大野に帰郷し、同僚松村九山に見せるなどして布教したが、九山には9月『詞壇骨鯁』による反論を受けた。天明5年(1785年)宗真は『詩訟蒲鞭』を刊行して北山擁護の論陣を張り、何忠順『駁詩訟蒲鞭』によって批判を受けている。
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詩風
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現存する詩は241首と六朝時代の詩人としては比較的多く残っている。楽府詩を得意とし、それによって寒門出身ゆえの人生の不遇や艱難を詠う内容が多い。典故にもとづいた旧来の表現に拘泥せず、好んで新奇な語を用い、風景や自らの感慨を力強くダイナミックな調子で詠う作風が特徴である。そうした作風は、同時代において通俗的で典雅さに欠けると批判されることもあったが、後世の唐代の詩人に大きな影響を与えた。唐の詩人杜甫は、李白の詩才を「清新なるは庾開府(庾信)、俊逸なるは鮑参軍」(「春日 李白を憶ふ」)と鮑照になぞらえて称えている。 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。鮑照の作品 典拠管理 BIBSYS: 13050812 BNF: cb12309868z (データ) FAST: 82239 GND: 139676120 ISNI: 0000 0000 7972 9662 LCCN: n81131751 NCL: 000219035 NDL: 00627007 NLA: 36731158 NTA: 142964689 SUDOC: 031983243 Trove: 1439001 VIAF: 32064639 WorldCat Identities: lccn-n81131751
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詩風
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詩は陶淵明の遺風を承け、簡潔な表現の中に枯れた味わいを醸し出す自然詩を得意とした。唐代の同じ傾向持つ詩人、王維・孟浩然・韋応物らとともに「王孟韋柳」と並称された。ただ、その文学には政治上の不満ないし悲哀が色濃くにじみ、都を遠く離れた僻地の自然美をうたいながらも、どこか山水への感動に徹しきれない独自の傾向を持つ。
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詩風
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詩は困窮・怨恨・憂愁を主題としたものが多く、表現は奇異。韓愈とならんで「韓孟」と称せられる。蘇軾は賈島とならべて「郊寒島痩」、つまり孟郊は殺風景で賈島は貧弱と評す。韓愈が推奨するところの詩人であり、「送孟東野序」が知られている。『孟東野集』10巻がある。 古別離 欲別牽郎衣 別れんと欲して郎が衣を牽く 郎今到何処 郎 今は何処にか到る 不恨歸来遅 帰来の遅きを恨みず 莫向臨邛去 臨邛に向かって去るなかれ 帰信吟 涙墨灑為書 涙墨をそそいで書と為す 将寄萬里親 まさに萬里の親に寄せんとす 書去魂亦去 書去って魂亦去り 兀然空一身 兀然として一身空し 渭上思帰 獨訪千里信 ひとり千里の信を訪う 回臨千里河 また千里の河に臨む 家在呉楚郷 家は在り呉楚の郷 涙寄東南波 涙は寄す東南の波 京山行 衆蝱聚病馬 衆蝱病馬にあつまり 流血不得行 流血行くを得ず 後道起夜色 後道に夜色起こり 前山聞虎声 前山に虎声を聞く 此時遊子心 此の時 遊子の心 百尺風中旌 百尺風中の旌(はた) 登科後 昔日齷齪不足誇 昔日の齷齪(あくせく)誇るに足らず 今朝放蕩思無涯 今朝の放蕩思い涯て無し 春風得意馬蹄疾 春風に意を得て馬蹄は疾し 一日看尽長安花 一日に看尽くす長安の花 題名の通り、作者が科挙に合格した際の喜びを読んだ七言絶句である。
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詩風
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梅村の特徴として、先朝の滅亡を悲しみ、過去に傷心したことがあげられる。そのことが詩の作風にも大きく影響しており、彼の詩は祖国が滅んだことへの嘆き、自分が祖国を裏切ったことへの怨みなどによる哀歌が多い。特に明から清への交替は、明からすれば異民族に征服されたことになる。それ故に彼の明への追悼、清への怨みはとても大きく、強く作品に反映されている。また、幼少期から才能が開花し、若くして朝廷に召され地位を手に入れた梅村であるが、その後明朝はどんどん傾いていき、輝かしい人生は明朝とともに崩れ落ちていった。全体的に梅村の作品に暗い印象があるのは、これらの激動の人生が理由である。しかし、彼の作品のすべてが亡国を嘆いたものであるわけではなく、若い頃の作品は華やかな才能が輝き出るものであった。また、彼が生み出した叙事詩型は梅村体(體)と名付けられて後世に大きく影響した。 梅村は詩に関しては唐を模範とし、文においては唐宋を模範とすると主張するものの、論理性はあまり見受けられない。そして典故を多用する。さらに風刺のさいには曖昧な表現を用いるので、注釈を見ながら読んでも意味を理解できないことがある。(風刺の曖昧な例として、「巻七曇陽観に文学博介石を訪う」という作品がある。これは明が滅亡した際にあからさまに明への思いを詩にすることができなかったため、舜の伝説を用いることで雲南で殺された桂王を表現したものである。) また、梅村は艶詩でも有名である。しかしその艶詩はただ華やかなだけではなく、亡国の悲しさが込められている。艶詩に亡国の悲哀を織り交ぜることにより哀感を加えるというのは、梅村の得意とするところである。 秋風落日、長笛哀歌、江湖放舟等を愛用するが、これは唐代の詩の慣用句を組み合わせて使っているものであり、復古派の特徴でもある。 梅村体の重大な欠陥は一つの詩の中に同じ文字を何度も使うことである。「鴛湖曲」という詩を例に挙げると、湖が五回、煙と風がそれぞれ四回、柳、雨、樹がそれぞれ三回、さらに草、月、驕、船、桃、天、葉が二回ずつ用いられている。しかし梅村の詩はこれらの文字の重複を気づかせないほどに美しく構成されており、この欠点に気付けないほどである。 梅村の詩の総数は、本により異なっている。康熙初年に刊行された二十巻の無注本の配列によった集覧、箋注いわく詩は千三十首、詩余九十二首とされている。梅村の詩集、注は以下のとおり。 1.梅村集四十巻 康熙七、八年刊(現存する以下の文集の基盤となっている。弟子の編集という形をとっているが、本人の編集だという説がある。) 2.梅村家蔵稿五十九巻年譜四巻 宣統三年刊(この本には通行本に含まれない詩が比較的多く載っているものの、それでもすべてを網羅しているわけではない。) 3.梅村先生編年詩集十二巻 程穆衡注 民国十八年刊 4.呉詩集覧二十巻 靳栄藩注 乾隆四十年刊 5.呉詩箋注十八巻 呉翌鳳注 嘉慶十九年刊 以上の文集を確認してみても、除外された作品が多く存在することがわかる。これは対清戦争をうたったもの、清朝に対する批判をうたったものを削除したのではないかと考えられる。また、そのような理由ではなく削除された作品もあり、それらは梅村自身満足のいっていない作品であったからと考えられている。自分の身に危険が及ぶであろう作品、満足のいっていない作品を梅村自身が削除したことで、文集から消えた作品がうまれたのである。 梅村の親友であった陳子龍は、梅村の詩を「はなはだ李頎に似たり」と称している。これは、李頎の七律が王世貞から高く評価されていたからではないかとされている。
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詩風
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「ピエール・ジャン・ジューブ」の記事における「詩風」の解説
ジューブの詩風は難解で、戦前は人類の終末や不幸、善と悪との永遠の闘争などの宗教的で哲学的な主題をうたい、戦後は敗戦したフランスに対する苦悶を『パリの聖母』で表現している。代表作『血の汗』ではフロイトの精神分析学の影響を受け、無意識的なエロスと詩の合一をはかったもので、人間のエロティックな力から生まれる「血の汗」により崇高な実態へ邁進するのが詩人であるとした。
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詩風
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生涯で二度左遷を味わい、新法党に対する批判者扱いとされていた蘇軾は、自身の考えをあからさまに述べることが出来なかった期間が長かった。しかし、実際の詩文を読んでみると、柔軟でしなやかであり、芯が強い。強く生き貫こうとする志が表れているのである。 また蘇軾は、自然を好み自然(造物)に自身の心情を託している。宋代に入り自然描写を含んだ詩が多く出てきているが、擬人法を用いて早い時期から習得し成立させていたのが蘇軾であった。擬人法の先例として、次の句が挙げられる。 新城道中二首の一原文書き下し文通釈東風知我欲山行 東風は我が山行せんと欲するを知りて 春風はわたくしが山歩きをしようとしているのを悟ってか 吹斷簷間積雨聲 吹斷す、簷間の積雨の聲を 軒端に積もっていた淋雨の音を、今日はすっかり吹き払ってくれる
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詩風
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沈佺期は宋之問ともに近体詩の韻律の整形に力を入れ、五言律詩の詩型を整備した上、当時未成熟であった七言律詩の確立にも大きな貢献を果たした。
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詩風
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和漢の学問を究め、博覧強記として知られたが、中でも詩は最も得意とするところで、梁川星厳に師事し、「今山陽」(頼山陽の再来)と称された。
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詩風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/02 00:37 UTC 版)
現存する詩は200首余り、その内容は代表作とされる山水詩のほか、花鳥風月や器物を詠じた詠物詩、友人・同僚との唱和・離別の詩、楽府詩などが大半を占める。 山水詩の分野において、謝朓は同族の謝霊運が開拓した山水描写を継承するとともに、それをより一層精緻なものへと洗練させていった。さらに謝霊運の山水詩が、前代の「玄言詩」の影響を受け、自然の中から哲理や人生の教訓を引き出そうとすることによって、しばしば晦渋さや生硬さを免れないのに対し、謝朓の山水詩は、山水描写と自らの情感とを巧みに融合させた、より抒情性豊かなものとなっている。このような精巧で清澄な描写と抒情性に富んだ風格は、山水詩以外の分野でも発揮されており、謝朓の詩の基調となっている。 謝朓の詩は同時代から高く評価され、「二百年来、此の詩無し」(沈約)や「三日玄暉の詩を誦せざれば、即ち口の臭きを覚ゆ」(南朝梁の武帝で、竟陵八友の一人の蕭衍)のように、竟陵八友の間でも特に愛好された。他に少し遅れて「近世の謝朓・沈約の詩、任昉・陸倕の筆、斯れ実に文章の冠冕、述作の楷模なり」(南朝梁の簡文帝)、「詩多くして能なる者は沈約、少なくして能なる者は謝朓・何遜」(南朝梁の元帝)などの評価も残されている。 後世においても、「謝朓の詩、已に全篇唐人に似たる者有り」(南宋の厳羽『滄浪詩話』)や「世の玄暉の目して唐調の始と為すは、精工流麗の故を以てなり」(明の胡応麟『詩藪』)のように、唐詩の先駆として高く評価されている。唐の詩人李白は謝朓詩の清澄さをことに愛好し、自らの詩の中でしばしば謝朓の詩に対する敬愛を表明している。
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詩風
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北宋の蘇軾の評に「郊寒島痩」(郊は孟郊で、島は賈島)という語がある。特に五言律詩に長じた。 著書に『長江集』10巻がある。 題李欵幽居 閑居少鄰竝 閑居隣並少なく 草径入荒園 草径荒園に入る 鳥宿池中樹 鳥は宿る 池中の樹 僧敲月下門 僧は敲く 月下の門 過橋分野色 橋を過ぎて野色を分かち 移石動雲根 石を移して雲根を動かす 暫去還来此 暫く去って還た此に来たる 幽期不負言 幽期 言に負(そむ)かず 渡桑乾 客舎并州已十霜 并州に客舎し 已に十霜 歸心日夜憶咸陽 帰心日夜 咸陽を憶う 無端更渡桑乾水 端無くも更に渡る 桑乾水 卻望并州是故郷 卻って并州を望めば 是れ故郷 尋隠者不遇 松下問童子 松下童子に問う 言師採薬去 言う 師は薬を採りに去る 只在此山中 只だ此の山中に在り 雲深不知處 雲深くして処を知らず
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詩風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/29 19:30 UTC 版)
詩を作るにあたって梅堯臣は平淡を旨とした。これは晩唐から流行していた西崑体の、華麗な表現に主眼を置き過ぎ難解になりがちな詩風に反対するものである。また身近なことを題材に詩を詠んだのも特徴のひとつである。例えば、犬猫から蝿やミミズなどの小動物、農具など生活に身近な物を詠んだりと、今まで誰も用いなかったようなものを題材とする詩が多く、何でもかんでも詩にしてしまったという具合である。さらにそれらの題材に仮託して、詩の中である事物に対する議論が行われている。また地方官勤めが長かったため、世の矛盾に対して辛辣な批判を述べる社会派の詩も多い。 このような梅堯臣の詩風は、「かめばかむほど味が出る」と評されたが、その平淡さゆえに派手さがなくわかりにくいなどの批判がある。そのためか漢詩にある種の優美さを求める日本の読者にはあまり人気がない。 宋代詩の系列では蘇舜欽とともに「蘇梅」と並称されている。
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詩風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 16:27 UTC 版)
左遷を経験したことから、楽府体の寓言詩で諷喩色の強い詩を詠んだ。例えば、蚊を小さい存在ながらも夏にはうるさく飛び回っては人を傷つけるさまを中央政界にいる佞臣に喩えた。いずれ冬が来れば蚊が絶えるように佞臣達も時の利を失って凋落するであろうとの意味を込めている。 また、各地で歌われていた歌曲に新たな歌辞をつくった。夔州刺史として赴任中には、この地の歌謡であった竹枝をもとにして「竹枝詞」を多く作ったことは有名である。
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