詩風とは? わかりやすく解説

し‐ふう【詩風】

読み方:しふう

詩の作風。詩の傾向


詩風

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/28 08:52 UTC 版)

戴復古」の記事における「詩風」の解説

戴復古作品は、江湖派の流れ汲み、詩風は永嘉四霊提唱した晩唐の詩に学んだのであるが、政治批判を含む社会詩も多く作っている。 後に江西派の風格混入し、「自ら嘲(あざけ)る」という詩には、 自ら嘲る原文書下し賈島原自瘦 賈島の形 原(も)と自ら痩せ 杜陵言語不妨 杜陵言語 なるを妨げず とあり、賈島江湖派の「二妙」の中の一「妙」であり、杜甫江西派のいわゆる「一祖三宗」の中の一「祖」である。この詩の2句は、2つ流派仲裁をしようという彼の企て示されている。 戴復古詩集は、『石屏詩集』(せきへいししゅう)といい、趙汝讜(ちょうじょとう)が130首を選んだのちに始まり今は10巻。『石屏詩集』には、放浪境涯をうたう詩が多い。他に、『続集4巻。『石屏詩』がある。

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詩風

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 03:57 UTC 版)

白居易」の記事における「詩風」の解説

白居易多作詩人であり、現存する文集71巻、詩と文の総数は約3800首と唐代詩人の中で最多誇り詩の内容多彩である。若い頃は「新楽府運動」を展開し社会政治実相批判する諷諭詩」を多作したが、江州司馬左遷後は、諷諭詩はほとんど作られなくなり日常ささやかな喜び主題とする「閑適詩」の制作重点がうつるようになる白氏文集収められる諷諭詩については、「元九に与ふる書」中において、彼自身によってその意義明言されている。そこでは、『詩経』を根元とする「詩道」が衰えていく中で、諫官たる左拾遺の職を授かって諫言啓奏する立場就いたとき、直接指摘して延べにくい事を『詩経』の精神則って詠歌したことを語り、しかしそれらの詩が人々誹謗受けたことなどを顧みている。さらに、自身の詩を「諷諭」「閑適」「感傷」「雑詩」の四つ分類し、「諷諭詩」を「兼済(己の能力発揮する道が開けているとき、そのような状況立場にある時には広く天下救済することに努めるべきであるとすること)の志」に基づいて作ったもの、「閑適詩」を「独善自分世に容れられないときには名利恬淡として自身良く修めることに努めるべきであるとすること)の義」を詠んだのである明示した上で自分詩作品の中で「諷諭詩」を最も重要なもの、それに次いで意義のあるものが「閑適詩」であると述べ、「感傷」「雑詩」と区別している。「感傷詩」の代表作は「長恨歌」「琵琶行」。他にも、無二の親友とされる元稹劉禹錫との応酬詩も名高い彼の閑適詩」は日本において、理想の生活として愛され様々な文学引用された。一方、彼自身が一番重要とした「諷諭詩」もまた、菅原道真紫式部はじめとする平安時代知識人重く受けとめられた。 いずれの時期においても平易暢達重んじる詩風は一貫しており、伝説では詩を作るたび文字読めない老女読んで聞かせ理解できなかったところは平易な表現改めたとまでいわれる北宋の釈恵洪『冷斎詩話』などより)。そのようにして作られ彼の詩は、旧来の士大夫階層のみならず妓女牧童といった人々にまで愛唱された。また、白居易の詩風に関して渡辺秀夫氏は、「四季折々循環する風物取材しながらその推移しゆく季節のなかに直進して再帰しえない時間をみて、ひるがえって我が身人生老いやすさを詠嘆する作例きわめて多く、これが白詩抒情様式一大水脈をなしているといって過言ではない」と述べている。

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詩風

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雨森宗真」の記事における「詩風」の解説

山本北山経史学んだ北山袁中郎公安派(中国語版)を奉じて古文辞学的な作詩法を非難し天明3年1783年)『作文志彀』『作詩志彀』を刊行すると、宗真もこれを携えて大野帰郷し同僚松村九山に見せるなどして布教したが、九山には9月詞壇骨鯁』による反論受けた天明5年1785年)宗真は『詩訟蒲鞭』を刊行し北山擁護論陣張り、何忠順駁詩訟蒲鞭』によって批判受けている。

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詩風

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鮑照」の記事における「詩風」の解説

現存する詩は241首と六朝時代詩人として比較多く残っている。楽府詩を得意とし、それによって寒門出身ゆえの人生不遇艱難詠う内容が多い。典故にもとづいた旧来の表現拘泥せず好んで新奇な語を用い風景や自らの感慨力強くダイナミックな調子詠う作風特徴である。そうした作風は、同時代において通俗的典雅さ欠けると批判されることもあったが、後世唐代詩人大きな影響与えた。唐の詩人杜甫は、李白詩才を「清新なるは庾開府庾信)、俊逸なるは参軍」(「春日 李白を憶ふ」)と鮑照なぞらえて称えている。 中国語版ウィキソースに本記事関連した原文あります鮑照作品 典拠管理 BIBSYS: 13050812 BNF: cb12309868z (データ) FAST: 82239 GND: 139676120 ISNI: 0000 0000 7972 9662 LCCN: n81131751 NCL: 000219035 NDL: 00627007 NLA: 36731158 NTA: 142964689 SUDOC: 031983243 Trove: 1439001 VIAF: 32064639 WorldCat Identities: lccn-n81131751

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詩風

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柳宗元」の記事における「詩風」の解説

詩は陶淵明遺風承け簡潔な表現中に枯れた味わい醸し出す自然詩を得意とした。唐代の同じ傾向持つ詩人王維孟浩然韋応物とともに「王孟韋」と並称された。ただ、その文学には政治上の不満ないし悲哀色濃くにじみ、都を遠く離れた僻地自然美をうたいながらも、どこか山水への感動徹しきれない独自の傾向を持つ。

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詩風

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孟郊」の記事における「詩風」の解説

詩は困窮怨恨憂愁主題したもの多く表現奇異韓愈ならんで「韓孟」と称せられる。蘇軾賈島ならべて「郊寒島痩」、つまり孟郊殺風景賈島貧弱評す韓愈推奨するところの詩人であり、「送孟東野序」が知られている。『孟東野集』10巻がある。 古別離 欲別牽郎衣 別れんと欲して郎が衣を牽く 郎今到何処今は何処にか到る 不恨歸来帰来の遅きを恨み臨邛臨邛向かって去るなかれ 帰信吟 涙墨灑為書 涙墨をそそいで書と為す 将寄萬里親 まさに萬里の親に寄せんとす 書去魂亦去 書去って魂亦去り 兀然一身 兀然として一身空し上思帰 獨訪千里信 ひとり千里の信を訪う 回臨千里河 また千里の河に臨む 家在呉郷 家在りの郷 涙寄東南波 涙は寄す東南の波 京山行 衆蝱聚病馬 衆蝱病馬にあつまり 流血不得行 流血行くを得ず 後道起夜色 後道に夜色起こり 前山聞虎声 前山に虎声を聞く 此時遊子此の遊子の心 百尺風中旌 百尺風中の旌(はた) 登科後 昔齷齪不足誇 昔日齷齪あくせく)誇るに足らず 今朝放蕩無涯 今朝放蕩思い涯て無し 春風意馬蹄疾 春風意を得て馬蹄疾し 一日看尽長安一日に看尽く長安の花 題名通り作者科挙合格した際の喜び読んだ七言絶句である。

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詩風

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呉偉業」の記事における「詩風」の解説

梅村特徴として、先朝滅亡悲しみ過去傷心したことがあげられるそのことが詩の作風にも大きく影響しており、彼の詩は祖国滅んだことへの嘆き自分祖国裏切ったことへの怨みなどによる哀歌が多い。特に明から清への交替は、明からすれば異民族征服されたことになる。それ故彼の明への追悼、清への怨みはとても大きく強く作品反映されている。また、幼少期から才能開花し若くして朝廷召され地位手に入れた梅村であるが、その後明朝はどんどん傾いていき、輝かし人生明朝とともに崩れ落ちていった。全体的に梅村作品に暗い印象があるのは、これらの激動人生理由である。しかし、彼の作品のすべてが亡国嘆いたのであるわけではなく若い頃作品華やかな才能輝き出るものであったまた、彼が生み出した叙事詩型は梅村体(體)と名付けられ後世大きく影響した梅村は詩に関しては唐を模範とし、文においては唐宋模範とすると主張するものの、論理性はあまり見受けられない。そして典故多用する。さらに風刺のさいには曖昧な表現用いるので、注釈を見ながら読んでも意味を理解できないことがある。(風刺曖昧な例として、「巻七曇陽観に文学博介石を訪う」という作品がある。これは明が滅亡した際にあからさまに明への思いを詩にすることができなかったため、舜の伝説用いることで雲南殺され王を表現したのである。) また、梅村は艶詩でも有名である。しかしその艶詩はただ華やかなだけではなく亡国悲しさ込められている。艶詩に亡国悲哀織り交ぜることにより哀感加えるというのは、梅村の得意とするところである。 秋風落日、長笛哀歌江湖放舟等を愛用するが、これは唐代の詩の慣用句組み合わせて使っているものであり、復古派の特徴でもある。 梅村体の重大な欠陥一つの詩の中に同じ文字何度も使うことである。「湖曲」という詩を例に挙げると、湖が五回、煙と風がそれぞれ四回、それぞれ三回、さらに、月、驕、船、、天、が二回ずつ用いられている。しかし梅村の詩はこれらの文字重複を気づかせないほどに美しく構成されており、この欠点気付けないほどである。 梅村の詩の総数は、本により異なっている。康熙初年刊行され二十巻の無注本の配列によった集覧、箋注いわく詩は千三十首、詩余九十二首とされている。梅村詩集、注は以下のとおり1.梅村四十康熙七、八年刊現存する以下の文集基盤となっている。弟子編集という形をとっているが、本人編集だという説がある。) 2.梅村家蔵稿五十九巻年譜四巻 宣統三年刊(この本に通行本含まれない詩が比較多く載っているものの、それでもすべてを網羅しているわけではない。) 3.梅村先生編年詩集十二巻 程穆衡注 民国十八年刊 4.呉詩集二十巻 靳栄藩注 乾隆四十年刊 5.呉詩箋十八巻 呉翌嘉慶十九年刊上の文集確認してみても、除外され作品多く存在することがわかる。これは対清戦争うたったもの、清朝対す批判うたったものを削除したではないか考えられるまた、そのような理由ではなく削除され作品もあり、それらは梅村自身満足のいっていない作品であったからと考えられている。自分の身に危険が及ぶであろう作品、満足のいっていない作品梅村自身削除したことで、文集から消えた作品うまれたのである梅村親友であった子龍は、梅村の詩を「はなはだ李頎似たり」と称している。これは、李頎七律王世貞から高く評価されていたからではないかとされている。

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詩風

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ピエール・ジャン・ジューブ」の記事における「詩風」の解説

ジューブの詩風は難解で、戦前人類終末や不幸、善と悪との永遠闘争などの宗教的哲学的な主題をうたい、戦後敗戦したフランス対す苦悶を『パリ聖母』で表現している。代表作血の汗』ではフロイト精神分析学影響を受け、無意識的なエロスと詩の合一はかったもので、人間エロティックな力から生まれる「血の汗」により崇高な実態邁進するのが詩人であるとした。

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詩風

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蘇軾」の記事における「詩風」の解説

生涯二度左遷味わい新法党対す批判者扱いとされていた蘇軾は、自身考えあからさまに述べることが出来なかった期間が長かった。しかし、実際詩文読んでみると、柔軟しなやかであり、芯が強い強く生き貫こうとする志が表れているのである。 また蘇軾は、自然を好み自然(造物)に自身心情託している。宋代入り自然描写含んだ詩が多く出てきているが、擬人法用いて早い時期から習得し成立させていたのが蘇軾であった擬人法先例として次の句が挙げられる新城道中二首の一原文書き下し文通東風我欲山行 東風我が山行せんと欲する知り春風はわたくしが山歩きをしようとしているのを悟ってか 吹斷簷間積雨聲 吹斷す、簷間の積雨の聲を 軒端積もっていた淋の音を、今日はすっかり吹き払ってくれる

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詩風

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沈佺期」の記事における「詩風」の解説

沈佺期宋之問ともに近体詩韻律整形力を入れ五言律詩詩型整備した上、当時未成熟であった七言律詩確立にも大きな貢献果たした

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詩風

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河野鉄兜」の記事における「詩風」の解説

和漢学問究め博覧強記として知られたが、中でも詩は最も得意とするところで、梁川星厳師事し、「今山陽」(頼山陽再来)と称された。

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謝朓」の記事における「詩風」の解説

現存する詩は200余りその内容代表作とされる山水詩のほか、花鳥風月器物詠じた詠物詩、友人同僚との唱和離別の詩、楽府詩などが大半占める。 山水詩分野において、謝朓同族謝霊運開拓した山水描写継承するとともに、それをより一層精緻なものへと洗練させていった。さらに謝霊運山水詩が、前代の「玄言詩」の影響を受け、自然の中から哲理人生教訓引き出そうとすることによって、しばしば晦渋さや生硬さを免れないのに対し謝朓山水詩は、山水描写と自らの情感とを巧みに融合させた、より抒情性豊かなものとなっている。このような精巧清澄な描写抒情性富んだ風格は、山水詩以外の分野でも発揮されており、謝朓の詩の基調となっている。 謝朓の詩は同時代から高く評価され、「二百年来此の無し」(沈約)や「三日玄暉の詩を誦せざれば、即ち口の臭き覚ゆ」(南朝梁武帝で、竟陵八友の一人蕭衍)のように、竟陵八友の間でも特に愛好された。他に少し遅れて近世謝朓沈約の詩、任昉陸倕の筆、斯れ実に文章冠冕述作なり」(南朝梁簡文帝)、「詩多くして能なる者は沈約少なくして能なる者は謝朓何遜」(南朝梁元帝)などの評価残されている。 後世においても、「謝朓の詩、已に全篇唐人似たる者有り」(南宋厳羽滄浪詩話』)や「世の玄暉の目して唐調の始と為すは、精工流麗故を以てなり」(明の胡応麟『詩』)のように、唐詩先駆として高く評価されている。唐の詩人李白謝朓詩の清澄さをことに愛好し、自らの詩の中でしばしば謝朓の詩に対す敬愛表明している。

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賈島」の記事における「詩風」の解説

北宋蘇軾の評に「郊寒島痩」(郊は孟郊で、島は賈島)という語がある。特に五言律詩長じた著書に『長江集』10巻がある。 題幽居 閑居少鄰竝 閑居隣並少なく 草径入荒園 草径荒園に入る 宿池中 宿る 池中 僧敲月下門 僧は敲く 月下の門 過分野過ぎて野色分かち石動雲根 石を移して雲根を動かす 暫去還来此 暫く去って還た此に来たる 幽期不負言 幽期 言に負(そむ)かず 渡桑乾 客舎并州已十 并州客舎已に 歸心日夜咸陽 帰心日夜 咸陽憶う 無端更渡桑乾水 端無くも更に渡る 桑乾 卻望并州故郷 卻って并州望めば 是れ故郷隠者不遇 松下童子 松下童子に問う 言師採薬去 言う 師はを採りに去る 只在此山中 只だ此の山中在り 不知深くして処を知らず

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梅尭臣」の記事における「詩風」の解説

詩を作るにあたって梅堯臣平淡を旨とした。これは晩唐から流行していた西崑体の、華麗な表現主眼を置き過ぎ難解になりがちな詩風に反対するものである。また身近なことを題材に詩を詠んだのも特徴のひとつである。例えば、犬猫からミミズなどの小動物農具など生活に身近な物を詠んだりと、今まで誰も用いなかったようなものを題材とする詩が多く何でもかんでも詩にしてしまったという具合である。さらにそれらの題材仮託して、詩の中である事物対す議論が行われている。また地方官勤め長かったため、世の矛盾に対して辛辣な批判述べ社会派の詩も多い。 このような梅堯臣の詩風は、「かめばかむほど味が出る」と評されたが、その平淡さゆえに派手さがなくわかりにくいなどの批判がある。そのためか漢詩ある種優美さ求め日本読者にはあまり人気がない宋代詩の系列では蘇舜欽とともに」と並称されている。

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詩風

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劉禹錫」の記事における「詩風」の解説

左遷経験したことから、楽府体寓言詩で諷喩色の強い詩を詠んだ例えば、小さ存在ながらも夏にはうるさく飛び回っては人を傷つけるさまを中央政界にいる佞臣喩えた。いずれ冬が来れば絶えるように佞臣達も時の利を失って凋落するであろうの意味込めている。 また、各地歌われていた歌曲新たな歌辞つくった夔州刺史として赴任中には、この地の歌謡であった竹枝をもとにして「竹枝詞」を多く作ったことは有名である。

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