生い立ちから権力の掌握まで
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「レオニード・ブレジネフ」の記事における「生い立ちから権力の掌握まで」の解説
1906年12月19日、ロシア帝国のエカテリノスラフ県カメンスコエ(現在のウクライナのカーミヤンシケ市)で生まれた。父のイリヤは祖父の代以来の地元の金属工場の労働者であった。1921年に家族と共にクルスクへ転居。15歳で地元の製鉄所に勤務し、1923年には共産党青年組織であるコムソモールに加わった。共産党はコムソモールの若い労働者を大学で学ばせ、指導者及び専門家に育て上げるという方針を採り、彼はその方針下で育った「60年代ソ連指導者の典型」であった。ロシア革命後の多くの労働者階級青年のように彼は1924年から1927年までクルスクの職業技術学校に学び、初級農業技師となって土壌改良業務に就く。1930年にカメンスコエに戻り、1931年10月に共産党に入党した。その後彼はドニエプロジェルジンスク冶金大学で冶金学を学び、1935年5月に卒業して東ウクライナの製鉄所技師になった。 同年10月には赤軍(後のソビエト連邦地上軍)に入隊し、戦車訓練校を修了すると戦車部隊の政治委員となった。1936年末にはドニエプロジェルジンスク冶金大学の校長になった。1937年にウクライナ共産党幹部、モルダヴィア(現在のモルドバ)党委員会第一書記、1939年5月にドニエプロペトロフスク州党委員会書記になり、防衛産業の組織を行った。 彼はロシア革命前に成人していなかった共産党員の最初の世代であった。また、1924年1月のレーニン死後の共産党の主導権争いには若過ぎたため参加できなかった。ブレジネフが入党したときスターリンは絶対的な指導者であり、ブレジネフを含む多くの若い共産党員が純粋なスターリン主義者として成長した。スターリンの大粛清を免れた者達は党及び国家の重要ポストに就くこととなった。 1941年6月、ドイツ軍がバルバロッサ作戦でソ連に侵入した。ドニエプロペトロフスクは8月26日にドイツ軍の手に落ちたが、ブレジネフは市の産業を疎開させるために努力した。彼は戦争の始まりと同時に軍の政治委員として働いた。赤軍では専門の士官と政治委員による二重システムによって部隊が運用された。このシステムは非効率的であり、職業軍人にとっては不満の募るものであった。同年10月にブレジネフは旅団人民委員の階級を与えられると同時に南部方面軍政治指導部次長に就任した。 1942年にウクライナが完全に失われ、ブレジネフはザカフカス正面の政治指導部次長としてカフカスに派遣された。1943年4月に彼は第18軍の政治部長になった。同年末に赤軍は主導権を回復し、第18軍は第1ウクライナ正面軍の一部となりウクライナを通り西方に進撃した。正面軍の上級政治委員は後にブレジネフの重要な後援者になるニキータ・フルシチョフだった。大祖国戦争の終了時、ブレジネフは第4ウクライナ方面軍政治指導部部長としてプラハに入っていた。 1946年8月にブレジネフは少将の階級で赤軍を去った。彼は軍司令官では無く政治委員として大祖国戦争(独ソ戦)を戦った。ウクライナ共産党ザポロージェ州委員会で再建計画に携わった後、彼はドニエプロペトロフスク州党委員会第一書記になった。1950年3月に最高会議代議員となり、同年6月にモルダヴィア共産党中央委員会第一書記に就任した。1952年10月に共産党中央委員会及び最高会議幹部会のメンバーとなった。 ブレジネフはドニエプロペトロフスク州・モルダヴィア、後のカザフスタンなどの任地で築いた人脈を後年の権力強化に大いに利用した。「ドニエプロペトロフスク・マフィア」や「モルダヴィア・マフィア」等と称される人々の中には、コンスタンティン・チェルネンコ、ディンムハメッド・クナーエフ、ニコライ・チーホノフなどのちに頭角を現す人物も含まれている。
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