生い立ちから日本との関わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 06:51 UTC 版)
「石平 (評論家)」の記事における「生い立ちから日本との関わり」の解説
1962年1月30日に中華人民共和国の四川省成都市に誕生した。1966年5月に始まった文化大革命の最中に教師であった両親が大学から農場へ下放された。父親は物理教師で、豚の畜産に従事しており、以後は四川省の農村部で漢方医である祖父によって養育された。祖父は石に漢方医を継がせるべく、医者になるための教養として密かに「論語」を教えていたが、石が11歳の時に肺がんで死去した。 中学校時代はゴミ拾いの貧しい老婆が近所に住んでいて、いつも学校帰りの石少年ら子供たちに、笑顔で「勉強頑張ってね」と声をかけていたが、ある日突然その老婆がいなくなり、「反革命分子」として政府に逮捕されたことを知った。数日後に老婆はトラックに乗せられて町中の市民に見せつけるため一巡させられた後、処刑場で銃殺された。この老婆が「反毛主席」の大罪で処刑された理由が、「ゴミ捨て場から拾った毛沢東の顔写真が印刷された新聞紙で大根を包んでいたから」ということをその後知った石少年は衝撃を受けた。 1980年9月に北京大学哲学部に入学し、1984年7月に卒業した。北京大学在学中の1982年頃より毛沢東暴政の再来を防ぐ目的で民主化運動に情熱を傾け始める。1988年(昭和63年)4月に日本に留学して日本語学校に入学した。1966年5月の文化大革命及び1989年6月に勃発した天安門事件における党の党利党略ぶりへの憤怒と絶望感を抱き、「この国にはもはや用が無い。何の愛着も義理も無い。」と祖国である中華人民共和国との精神的決別に至った。その一方、留学中の日本で中国の古き時代の隋・唐文化を守って発展させた日本文化に魅力を感じるようになり、孔子や論語の思想が日本の精神に生き続けていると感激し、次第に「愛日主義者」となっていった。なお1995年に民間研究機関に勤務していた[要出典]。 2002年(平成14年)1月に中華人民共和国国内に広がる反日感情をレポートした書物を出して論壇デビューを果たし、以来『正論』、『ボイス』、『ウィル』などの保守論壇誌に論考を寄稿し、日中関係・中国問題などを論じている。またフジテレビ・読売テレビ・テレビ朝日・TBSなどの中国関連ニュース番組・討論番組でコメンテーターを務めている[要出典]。
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