生い立ちから支那通軍人へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 01:18 UTC 版)
元仙台藩士で、岩手県の宮古郵便局長を務めた多田継の長男として生まれ、多田平次の養子となった。 東京電信学校を経て、仙台陸軍地方幼年学校に入校し、優等で卒業して銀時計を授与された。陸軍中央幼年学校を経て、1903年(明治36年)に陸軍士官学校を卒業(15期)。1904年(明治37年)3月に陸軍砲兵少尉に任官し、野砲兵第18連隊附。日露戦争に従軍し、旅順攻囲戦に参加した。 1913年(大正2年)11月、陸軍大学校を卒業(25期)。同月、陸士同期で親友であった河本大作(後の張作霖爆殺事件で有名)の妹・睦(むつ)と結婚した。 その後、1917年(大正6年)に北京の中華民国陸軍大学校に教官として招かれたことが、多田にとって中国との本格的な関わりを持つ第一歩となる。この時期、多田は黎元洪大総統の最高軍事顧問であった青木宣純中将の補佐官となり、ついで坂西利八郎少将の補佐官も兼ね、主にシベリア出兵関係の業務を担当した。青木・坂西両将軍とも陸軍屈指の支那通軍人として知られ、多田は二人を師として中国への認識を深めていった。多田によれば、両将軍は他の多くの日本人が中国人を下に見る中、中国人に礼儀を尽くし、それ故好感を持たれていた人物であったという。 シベリア出兵当時、多田は坂西の命令で北満州の視察に出かけているが、その時の印象を次のように記している。 「露人が力をもって北満に侵入し、力をもって支那人を圧迫し、その勢力を北満に入れしも、本国の革命にて無力となるや、支那人が威張り出して露人を頤使し、ついで日本が北満に入るや、日本人が威張り出して武力を背景に理由なく無理をするを見て、これでは日本も露支人の轍を踏むならんと憂慮せしが、このとき力なくんば駄目なるも、公正なる力、即ち正しさが無ければ永遠の発展は不可能なりと強く感じ…弱い者いじめが一層大嫌いとなれり」
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