戦争の始まり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 13:42 UTC 版)
詳細は「マニラの戦い (1899年)(英語版)」を参照 1899年2月4日、サン・フアン・デル・モンテ(英語版)の橋でアメリカ支配側に立ち入ったとされるフィリピン兵が射殺された。近年フィリピンが行った調査では、事件の現場は、現在のマニラ市内のソシエゴ通りであったとしている。当時のアメリカ合衆国大統領、ウィリアム・マッキンリーは、この事件はフィリピン側によるマニラ市内への攻撃であったと新聞に語り、責任をフィリピン側に求めた。 マッキンリー政権は、アギナルド率いる政府を犯罪者集団と呼んだため、議会を通じた正式な開戦通告は行われなかった。主な理由として2つ挙げられる。 1つ目は、フィリピン側を国と認知しないことで、国家間の戦争ではなく、政府に対する反乱であるとするためであった。しかし、この時点でアメリカ側が支配していたのはマニラのみであった。 もう1つは、米西戦争により逼迫していた財政を念頭に、アメリカ兵の戦争手当てを最小限にするため、戦争ではなく警察活動であると宣言したのであった。 1899年2月末までにアメリカ軍はなんとかマニラを手中に収め、フィリピン軍は北部へ退去せざるを得なかった。4月にアメリカ軍はクィングァの戦い(英語版)(現ブラカン州プラリデル(英語版))を制圧し、6月のフィリピン政府内の敵対派によるアントニオ・ルナ将軍の暗殺によって、フィリピンの通常軍は弱体化した。アメリカ軍の勝利はその後もザポテ橋の戦い(英語版)(1899年6月13日)で続いた。
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