戦争の多発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:11 UTC 版)
近世ヨーロッパは戦争と反乱が日常化した時代であった。17世紀中、戦争のなかった時期はわずか4年しかなかったといわれる。17世紀におけるヨーロッパでの主な戦争を下に掲げる。 オランダ独立戦争(八十年戦争)(1568年-1609年、1621年-1648年):スペインに対するネーデルラント諸州の反乱から始まった戦争。 ロシア・ポーランド戦争(1605年-1618年):ポーランド・リトアニア共和国とロシア・ツァーリ国との戦争。 イングリア戦争(1610年-1617年):スウェーデン帝国とロシア・ツァーリ国との戦争。 三十年戦争(1618年-1648年):ボヘミア新教徒の反乱を契機に起こった神聖ローマ帝国内の宗教戦争が、ドイツを中心に全ヨーロッパを巻き込んだ紛争に発展。 スモレンスク戦争(1632年-1634年):ポーランド・リトアニア共和国とロシア・ツァーリ国との戦争。 フランス・スペイン戦争(1635年-1659年):マントヴァ継承戦争(英語版)に引き続き、フランスがスペインに宣戦して起こった。 ポルトガル王政復古戦争(1640年-1668年):スペイン帝国とポルトガル王国との間の戦争。 ピューリタン革命(三王国戦争)(1642年-1649年):スコットランドに始まり、アイルランドに波及し、最終的にはイングランドでも起こった同時多発的な複合反乱。 第1次英蘭戦争(1652年-1654年):航海条例をめぐるイングランド共和国とネーデルラント連邦共和国の間の戦争。 ロシア・ポーランド戦争(1654年-1667年):ポーランド・リトアニア共和国とロシア・ツァーリ国との間の最後の大規模な戦争。 北方戦争(1655年-1661年):スウェーデン(バルト帝国)とロシアなど周辺諸国家との戦争。イギリスは常にスウェーデンと同盟し、オランダは一貫して反スウェーデン陣営に立った。 第2次英蘭戦争(1665年-1667年):イングランド王国が北米のオランダ植民地ニューアムステルダム(現:ニューヨーク市)を占領したことに端を発するイギリス・オランダ間の戦争。 ネーデルラント継承戦争(1667年-1668年):スペイン領ネーデルラント(現:ベルギー)の領有をめぐるフランス王国とスペイン王国の間の戦争。 オランダ侵略戦争(仏蘭戦争)1672年-1678年):ルイ14世によるオランダ侵攻から始まる。イギリス・スウェーデンがフランス側、スペイン・神聖ローマ帝国がオランダ側で参戦。 第3次英蘭戦争(1672年-1674年):チャールズ2世がルイ14世側に立ちオランダを攻撃、イギリス議会が王の親仏路線に反対してオランダと和睦。 スコーネ戦争(1675年-1679年):デンマーク王国がスコーネ地方奪回を目指してスウェーデンと戦争、イギリス・ロシアなどを除く諸国も参戦。 大トルコ戦争(1683年-1699年):オスマン帝国による大規模なヨーロッパ進撃作戦。第二次ウィーン包囲に始まる。キリスト教国が神聖同盟を結成してオスマンに対抗。 再統合戦争(1683年-1684年):フランスとスペインの間の戦争。神聖ローマ帝国・ジェノヴァ共和国がスペイン側で参戦。 名誉革命(1688年-1689年):イギリスにおけるクーデター。イングランド王ジェームズ2世が追放されて親オランダ政権が成立した。 大同盟戦争(プファルツ継承戦争)(1688年-1697年):ルイ14世がプファルツ選帝侯領に侵攻、フランスの膨張政策に対し諸国がアウクスブルク同盟を結成して対抗。 ウィリアマイト戦争(1689年-1691年);アイルランドにおけるウィリアム3世支持派(ウィリアマイト)とジェームズ2世支持派(ジャコバイト)の間の戦争。フランスがジャコバイトを支持した。 なお、17世紀末には下に掲げる大北方戦争が勃発している。18世紀初頭から1720年代までの主な戦争は以下の通りである。 大北方戦争(1700年-1721年):スウェーデン王国と反スウェーデン同盟(ロシア、デンマーク、ザクセン公国)との戦争。 スペイン継承戦争(1701年-1713年):スペイン王位をめぐるヨーロッパ諸国間の王朝戦争。ハプスブルク帝国、オランダ、イギリス、プロイセン、ポルトガルなどが反仏側で参戦。 墺土戦争(1716年-1718年):オーストリア(ハプスブルク帝国)とオスマン帝国によるセルビアをめぐる戦争。 四国同盟戦争(1718年-1720年):スペインと四国同盟(フランス、イギリス、オランダ、オーストリア)との間の戦争。ジャコバイトがスペインに加勢した。 戦争においては火器も使用されたが、小銃(火縄銃)が装填に少なくとも数分はかかり、速射能力に欠けるものであったことは洋の東西を問わない。小銃の技術的限界を戦術で克服する方法を編み出したのが日本の織田信長であり、ヨーロッパにおいてはネーデルラント反乱における連合軍最高司令官だったオランダのマウリッツ・フォン・ナッサウであった。ナッサウ伯マウリッツの新戦術は1594年のことで、「軍事革命」と呼ばれたが、彼の戦術は攻囲戦中心のネーデルラント反乱では実戦に移されることはなく、それが全面的に展開されたのは三十年戦争のグスタフ2世アドルフ王率いるスウェーデン軍においてであった。以後、数万に及ぶ大量の兵が大量の火器を用いて敵の拠点を取り囲み、あるいは直接対決する血みどろの戦争が日常化したのである。 繰り返される戦争は、戦場となった各地方にさまざまな損失をもたらしたが、それは単に戦闘による死傷者の続出というにとどまらなかった。戦闘の結果はむしろ副次的で、傭兵主体の軍隊とその行動様式そのものが住民にとっては大きな災禍であった。給与によって、あるいは無給で見習いとして働く傭兵は、概して忠誠心に乏しく、給与の低さや遅配を埋め合わせるため、徴発、略奪、暴行を当然の権利と心得、火器を所持して敵味方の区別なく住民を蛮行の対象としたのであり、そのため、戦闘そのものより、軍の通過や進駐による被害が恐れられたのである。 その代表的な事例が三十年戦争であった。この戦争は、規模の大きさや影響の深さも含め、あらゆる意味において17世紀の「ヨーロッパ大戦」と称されるべき性格をもっていた。特に被害の著しかったのは、フランスにおいては東部のブルゴーニュ地方、そして何より主戦場となったドイツの被害は甚大なものであった。ドイツの中でもとりわけ、皇帝軍とスウェーデン軍が対峙した北東部のメクレンブルクとポンメルン、中部ではチューリンゲン、南部では組織的略奪を受けたプファルツ、ヴュルテンベルクの被害は過酷なものであった。こうした軍隊は兵士の出身地もまちまちで習慣の違いもみられ、衛生観念に乏しかったため感染症の温床となることも多く、また、しばしば戦地を移動したので病原菌をまき散らす結果ともなり、しばしば感染源となって各地に感染爆発を招いた。
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