戦争の寓意
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 06:45 UTC 版)
「バガヴァッド・ギーター」の記事における「戦争の寓意」の解説
他の聖典にはあまり見られないことだが、『バガヴァッド・ギーター』はその教義を戦場の真ん中で展開する。哲学的講和の舞台として世俗的な環境が選ばれていることは、たびたび論評者に謎を投げかけてきた。何人かの現代のインド人作家はこれを「内なる戦い」の寓意であると読み解いている。 エクナット・イーシュワラン(英語版)は「悦に入った人生から抜け出したいと願う人ならば誰しもが遂行すべき自己支配の戦い」が『バガヴァッド・ギーター』の主題であるとし、「我々の直面する全ての苦しみと悲しみの元凶である自我の強権的支配から逃れるための気の遠くなるような戦いを我々に示唆するために『戦い』という言葉がこの経典に頻繁に登場している」と語っている。 ニキラーナンダはアルジュナをアートマンの寓意として、クリシュナをブラフマン、アルジュナの戦車は肉体、ドリタラーシュトラを無知に満たされた心の寓意として見ている。 マハトマ・ガンディーは『バガヴァッド・ギーター』に寄せた注釈で、「戦場は精神と、アルジュナ、すなわち人の持つ悪徳に抗おうとする高尚な衝動の寓意である」とした。 ヴィヴェーカーナンダもギーダの戦争に関連した最初の論説は寓意的に捉えることが出来ると強調した。彼は言う。 クルクシェートラの戦いは単純な寓意である。その深意を要約するならば、人の中で常に繰り広げられている美徳と悪徳の間の戦いといえる。 オーロビンドの見方では、彼はクリシュナは歴史上の人物であったとしながらも、ギーターにおいての彼の役割は「人間性を扱う神性のシンボル」であり、一方でアルジュナは「悩みもがく人間の精神」を代表しているとする。しかしオーロビンドはギーターを、もっと言えばマハーバーラタを精神的生活の寓意とすること、すなわちプラクティカルな意味で我々の人生にとって何も得るところがないという見方をすることには強く反対している。 (略)それはこの叙事詩の一般的特徴と実際の言葉がなにも正当化しないという見方であり、もっと言うと、ギーターの率直な哲学的言葉をながったらしくて、骨の折れる、幾分こどもじみたごまかしであると言い換えてしまう見方である。(中略)ギーターは飾らない言葉で語られており、人の人生に源を発する大きな倫理的、精神的な障害を解決することを約束している。そしてそれはこの率直な言葉や思想の影に隠れたりしないし、空想に奉仕するためにそれらを奪い取ったりしない。(略) スワミ・クリシュナーナンダ(英語版)は『バガヴァッド・ギーター』に描写されている登場人物、状況を人生の様々な気分、浮き沈み、様相のシンボルであるとした。彼はバガヴァッド・ギーターが人生に教えるところの持つ汎用性を強調し次のように述べている。 これはかつて生きていた人々の物語ではなくこの世界に生きてきた誰しもに当てはまる物語である。 スワミ・チンマヤーナンダ(英語版)は次のように語る。 『バガヴァッド・ギーター』は毎日の生活の中での精神的な考え方、感じ方、行動の仕方を再構成するための、そして自分自身で人生を豊かにする生産性の放出を引き出すための、そして主体的な人生を我々の中に思い描くための実用的な手引書であると見ることができる。
※この「戦争の寓意」の解説は、「バガヴァッド・ギーター」の解説の一部です。
「戦争の寓意」を含む「バガヴァッド・ギーター」の記事については、「バガヴァッド・ギーター」の概要を参照ください。
- 戦争の寓意のページへのリンク