テーマごとの分析
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/08 17:55 UTC 版)
本作はリチャード・ブロディ(英語版)やクリス・ヒューイットなどの批評家によって、暴力によって贖罪を得る物語と評されている。マクレーンは夫婦関係を守るためロサンゼルスにやってくるが、ホリーが去ってしまったことと同じ過ちを犯してしまう。ブロディとヒューイットは、マクレーンが暴力によってテロリスト達を倒した後に、初めて2人は和解できたように見えると示唆している。同様にパウエルは、かつて拳銃で子供を撃ってしまったことに深い悩みを抱えているが、マクレーンを守るために、再び銃を抜いてカールを撃つことで贖罪を見つける。FBI捜査官、カール、エリス、あるいはグルーバーを撃った後に油断してホリーを失いそうになるマクレーンなど、本作では怒りやエゴに駆られた男性キャラクターたちは苦しむ。イーバートはより冷静なキャラクター(多くの場合、アフリカ系アメリカ人)の方がうまくいっていると述べている。マクレーンは自分がカトリック(贖罪のために懺悔を必要とする宗派)であることを自覚している。ブロディは、マクレーンはガラスの破片で足の裏を切り、血まみれの「聖痕」を作るなど、肉体的な罰に耐えていると指摘する。これら犠牲を払うことによって彼は家族を救う。この意味でマクレーンは、現代の労働者階級に属するキリストのような人物と見なすことができる。 アレクサンダー・ブーンは、マクレーンが暴力的に妻を取り戻したことを、ギリシャ神話においてオデュッセウスが妻の求婚者たちを皆殺しにした逸話と比較している。マクレーンはネガティブな男性像でありながら、その男性性によって報われている。ジェフリー・ブラウンは、マクレーンのアンダーシャツが彼の男性的な肉体を強調していると考えた。この服装は、ランボーのような他のアクションキャラクター以外にも、レイチェル・マクリッシュ(英語版)(『エイセス/大空の誓い』)やリンダ・ハミルトン(『ターミネーター2』)のような男性的な特徴を持つ女性キャラクターの場合も同じである。パウエルとアーガイルは、マクレーンと肉体的には対等な存在ではないが、人間関係が優先し、行動を起こすことを求められた時に成功を果たす。マクレーンは目を見張る身体能力を持っているが、不器用で即興に頼り、仲間との関係性があってこそ成功している。マクレーンの成功に特に大きく貢献しているのは彼とパウエルの関係である。2人は恋愛感情とは無関係な親密な関係を築き上げたことで、それによってマクレーンはホリーにはできなかった夫としての失敗を彼に告白でき、人間的に成長することができた。対称的にグルーバーが失敗するのは、彼が孤立し、利己的で、自分の生存のために仲間を犠牲にするからである。 ピーター・パルシャルは、マクレーンとグルーバーは対称的な存在を示しているとみている。ブロディは、ロイ・ロジャース、ジョン・ウェイン、ゲイリー・クーパーのような西部のカウボーイ・スターを参照するような、ステレオタイプな古きアメリカ人のマクレーンと、アメリカを「破産した」文化と形容する伝統的な教育を受けたヨーロッパ人の悪役であるグルーバーを対比させている。エリザベス・アベレは、『スーパーマン』(1978年)や『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』(1981年)といった映画における過去10年間のスーパーヒーローたちと比較すると、マクレーンは身体能力の高さはありつつも、現実に存在するような男性として描かれており、それによって、独立した本質的な強さを持つ「本物の男」を伝えることができていると書いている。ジャスティン・チャンとマーク・オルセンによれば、これはアメリカン・ドリーム、自立、イニシアチブ、テクノロジーの進歩といった価値を推進するレーガン主義(Reaganism、ロナルド・レーガン大統領に由来する政治的立場)に対する反応と見なすことができると指摘している。 ウィリスは、マクレーンというキャラクターはそれが可能ならテロリストへの対処を他の誰かに任せたいと考えているが、結局、消極的にヒーローとしての役割を果たさざるを得ない状況に追い込まれていると述べている。登場人物らが紹介されるとき、マクレーンは結婚指輪をしている。スコット・トビアスはこれが彼の夫婦関係のコミットメントの象徴であると指摘している。ホリーはその反対に旧姓を名乗り、結婚指輪を外している。その代わりに雇用主からロレックスの時計を贈られており、これは彼女の仕事への注力と、結婚の破綻のコミットメントの象徴を示す役割を果たしている。映画の最後において、マクレーンが腕時計を外してホリーをグルーバーから救う時に、2人の別れの象徴(トーテム)は壊れ、和解したように見える。 パーシャルは『ダイ・ハード』における女性キャラクターの否定的な描写について述べている。彼女たちはピンナップポスターで性的に登場したり、妊娠中の飲酒を示唆したり、クリスマスイブに仕事を優先して家族と離れ離れにいる。ホリーは上司の死後、責任のある立場に就くが、それは同僚を気遣うという伝統的な女性の役割を果たすために、グルーバーから与えられたものである。高木の存在はホリーの人生においてマクレーンという別の支配的な男に取って変わられる。ダーリン・ペインは、『ダイ・ハード』は女性の社会進出が進み、ブルーカラーの仕事が外国人に奪われていく中で、主に家計を支える男性の現代的な衰退を反映していると指摘している。こうした事態に対して、アメリカ人のカウボーイが捕らえられた妻を外国人が所有する塔から救い出し、窮地を脱する物語である。 本作には、反政府、反官僚、反企業の要素がある。テロリスト達は、警察にはルールがあり、自分たちはそのルールを悪用しようとしているために、マクレーンが自分たちに危害を与えることはできないと主張する。一方で彼は「警部はそう言っている」と答え、自分が官僚的に承認された手順の外で動いていることを示唆する。ブロディは警察はしばしばテロリストたちよりも大きな障害となっていると指摘している。警察は自分たちが自体をコントロールできていると考えているが、実際にはすべてテロリストたちに行動を読まれていることに気づかない。現場責任者(市警本部次長)は無能に描かれ、FBIはテロリストさえ殺せれば人質の無事には無関心であるように描写される。マクレーンは大都会のエリートに扮したテロリストと戦うありふれた人である。劇中でエリスが述べる通り、社員たちとテロリストの違いは、片方はペンを用い、グルーバーは銃を使うという点だけである。警察、FBI、そして横暴なジャーナリストが、それぞれマクレーンの邪魔をして罰せられる。パーシャルはクリスマスという設定が、社会の伝統的な価値観への攻撃と捉えられると指摘している。企業はクリスマスイブにパーティを開くことで社員たちを家族から遠ざけ、また敵役はクリスマスの象徴(iconography)を皮肉っている。それらを打ち負かすことによってマクレーンは伝統と社会を守ることを示している。 ナカトミ・プラザは、ドイツ人を中心としたテロリストグループとは別に、日本の企業が所有し、人質はアメリカ人だった。ブロディは、これは日本のテクノロジー企業がアメリカのテクノロジー産業を支配する恐れがあった時代に外国勢力に対するアメリカ人の不安を反映したものだと指摘している。マクレーンの勝利は、アメリカが創意工夫で勝利することを示唆している。アメリカの古い敵であるドイツと日本は金銭的利益を追求するために誠実さを捨てたように描かれている。デイブ・ケアは、この映画がフェミニストやヤッピー、メディア、当局、外国人に対する1980年代の「ブルーカラーの怒り」を体現していると指摘している。ブロディは重要な役柄で登場するヴェルジョンソン、ギリアード、ホワイトを踏まえて、アフリカ系アメリカ人のキャラクターを描いている点でも本作は進歩的だと言えると指摘している。 The A.V. Clubは、1980年代の他の多くの映画とは異なり、『ダイ・ハード』はベトナム戦争の寓意ではないと指摘している。劇中ではヘリコプターによる襲撃でベトナム戦争を思い出すと発言し、相棒から自分は当時まだミドルスクールの学生だったと返されるFBI捜査官を揶揄するシーンがある。それでもエンパイア誌は、装備のない地元民が、高度な装備を持った外国の侵略者たちに立ち向かうことを描くことで、今回はアメリカが勝つのだと、この映画がベトナム戦争を参照しているとみなしている。ドリュー・エアーズは、ナカトミ・プラザの複雑なレイアウトを、ベトナムの遮蔽物の多いジャングルに擬えて表現した。
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