現代の労働
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 07:46 UTC 版)
戦後の日本政府は、GHQによる五大改革に相反して、女性労働者の削減を検討した。1945年11月に厚生大臣は、女子、高齢者、年少者の労働者は男性と代替するよう関係閣僚に指示した。これは男性のために女性が締め出されることも意味し、労働市場の性差別は続いた。 労働三法 1947年までにいわゆる労働三法が成立した。戦前の工場法と比べると、男女同一賃金、女子および年少者への時間労働と休日の保証、深夜業の禁止、産前産後休暇、育児時間、生理休暇などが認められた。生理休暇は諸外国にもまれで、実現には女性の粘り強い要望があった。世帯人数の減少、家電による家事の軽減、産業構造の変化による家事従業者の縮小などが重なり、外に出て働く女性が増加した。女性の雇用者数は、1955年の531万人から1990年には1834万人となった。 賃金 日本の賃金格差は、(1) 農業と工業の格差、(2) 企業規模による格差、(3) 本工と臨時工の格差が1920年代から指摘されていたが、男女の賃金格差はそれらと比較して社会問題とされてこなかった。労働基準法の第4条には差別禁止条項があるが、女性の賃金は家計補助的なものと考えられてきた。これは農村で次男三男や女性労働者の賃金が家計補助的だった事情による。1959年の最低賃金法は雇用労働者を対象とし、家内労働を除外して成立した。1970年には家内労働法が成立したが、そこでは在宅就労が除外された。 高度経済成長 高度経済成長を背景に一般家庭の所得は増え、洗濯機、冷蔵庫などの家電製品が普及した。より高い賃金を保証したいという願いから親は子に高等教育を望み、進学率と教育費は増加する。これらを背景としてパートタイマーと呼ばれる再就職女性労働者が激増した。1960年代のパート労働は、兼業農家の主婦が製造業工場で家計補助的に働くことが中心であり、1970年代から非農家の雇用労働者の主婦が働くことが増えていった。女性労働者はビジネスガール(BG)やオフィスレディ(OL)とも呼ばれた。 1975年には女性労働者のうち半数が共働きとなる。こうした女性らが労働の最大の障害であった保育所不足の解消を訴える。一方で働く環境が整ってくると正規労働で働き続ける女性も増えてきた。これに対し経営者は結婚退職や出産退職を女性に押し付けるようになる。1955年頃の労働基準局は、「結婚退職は労働基準法に抵触しない」という立場をとり、これに対して労働組合は抗議活動を行った。1966年に住友セメント事件で結婚退職制を憲法違反とする地裁判決を先鞭に女子差別労働裁判が増加。1970年代には年間53件とピークに達し、結婚退職制の撤回が進んだ。 男女雇用機会均等法 1985年には『男女雇用機会均等法』が成立するが、事業者には努力義務のみで制裁や罰則がないことから不十分な内容であった。また同時に改正された『労働基準法』により時間外労働や休日労働の制限などで女性保護規定は後退する。1999年には均等法が改正され、募集・採用・配置・昇進が禁止規定となり、是正しない企業は公表されることとなった。しかし国の努力義務はなく、セクハラ対策が事業主の防止策に留まるなど、より実効性のある指針の策定が望まれている。 アンペイドワーク 経済的な指標の多くは市場取引をもとにしているため、女性が多く行う家事労働、自給農業などの労働は低く見られたり統計で除外されてきた。これらはアンペイドワーク(無報酬労働)とも呼ばれており、アンペイドワークの価値を評価し、社会的地位の向上をはかる活動が国際的に進んでいる。日本の女性のアンペイドワークは2010年時点で平均3時間49分で、男性の平均39分と大きく差がある。これはペイドワークの時間差につながり、性別による経済格差をもたらすため、問題とされている。
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