戦争の影響と天皇賞のはじまり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 16:15 UTC 版)
「天皇賞」の記事における「戦争の影響と天皇賞のはじまり」の解説
日中戦争から太平洋戦争にいたる戦時中、帝室御賞典は下賜賞品を木製楯に代えながら続けられた(後述)。しかし、やがて戦局が悪化すると馬主に多くの戦死者が出るようになり、競走馬の所有権問題が浮上した。日本競馬会は全競走馬を買い上げることでこの問題を解決したが、全競走馬を買い上げたため「賞金や賞品を争う」という競馬の性格を維持できなくなった。さらに、1944年(昭和19年)春には軍部の命令により馬券(勝馬投票券)の発売を伴う競馬が禁止されたため、日本競馬会は農商省賞典四歳(現・皐月賞)や東京優駿(日本ダービー)などの主要な大レースに限って、「能力検定競走」として競馬を行った。帝室御賞典は1944年(昭和19年)春は施行場を京都競馬場に移し、皇室からの賞品下賜は辞退したうえで「能力検定競走」として非公開で行われたが、同年秋は中止され、帝室御賞典は中断することとなった。その後、1945年(昭和20年)には戦争の激化により、能力検定競走は行われなくなった。 終戦後、競馬は1946年(昭和21年)秋に再開された。帝室御賞典は1947年(昭和22年)春からの再開を決め、日本競馬会は皇室へ賞品の下賜を打診した。しかし、この時点では連合国軍総司令部(GHQ)による皇室への処分などが確定していなかったため、下賜は時期尚早として見送られた。すでに御賞典競走を開催する前提で番組編成をしていた日本競馬会は急遽、競走名を「平和賞」に変更して施行した。 1947年(昭和22年)秋に予定していた「第2回平和賞」の前日に皇室から賞品(楯)の下賜が再開されることが決定し、名称を「天皇賞」に改めて施行された。「天皇賞」の名称で行われるのはこれが初めてとなるが、公式な施行回数は1937年(昭和12年)秋の帝室御賞典にさかのぼり、「第16回天皇賞」とされた。その後、天皇賞の施行主体も日本競馬会から国営競馬(農林省競馬部)を経て、1954年(昭和29年)より日本中央競馬会が引き継いだ。 現在は1944年(昭和19年)春の帝室御賞典(能力検定競走)と1947年(昭和22年)の平和賞も公式な施行回数に含まれており、能力検定競走は「第14回天皇賞」、平和賞は「第15回天皇賞」と同義に扱われている。その一方で、これらの競走では皇室から賞品が下賜されていないため、天皇賞の施行回数から除外する考え方がある。1968年(昭和43年)に日本中央競馬会が編纂した史料では、能力検定競走や平和賞を回数に数えない考え方が示されている。
※この「戦争の影響と天皇賞のはじまり」の解説は、「天皇賞」の解説の一部です。
「戦争の影響と天皇賞のはじまり」を含む「天皇賞」の記事については、「天皇賞」の概要を参照ください。
- 戦争の影響と天皇賞のはじまりのページへのリンク