戦争と反乱
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「ジョージ1世 (イギリス王)」の記事における「戦争と反乱」の解説
ジョージ1世の王位継承から1年経たずに行われた1715年イギリス総選挙はホイッグの大勝に終わった。敗れたトーリーでは数人が、アン女王の腹違いの弟でカトリックのジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート(支持者からは「ジェームズ3世および8世」、反対者からは「僭称者」とよばれた)を王位につけようとしたジャコバイトに共感した。不平を感じたトーリーのなかには1715年ジャコバイト蜂起に加担した者もいた。スコットランドの不平貴族で元国務大臣のマー伯が率いるジェームズの支持者たちは、ジャコバイトへの共感がより強いスコットランドで反乱を起こした。しかし、後に「ザ・フィフティーン」(「15年の乱」)と呼ばれたこの反乱は大失敗に終わった。マー伯の計画は拙劣なものであり、ジェームズは到着が遅かった上に資金も武器も足らず、年末には失敗が明らかになった。1716年2月、ジェームズとマー伯はフランスへ逃亡した。反乱が鎮圧された後、いくらかの処刑や所領没収はあったものの、ジョージ1世が寛容を示して政府との仲介を行い、没収した財産をスコットランドの学校や国債の償還に使った。 ジョージ1世がトーリーに不信感を持ったため権力はホイッグに移った。ジョージ1世の下で、ホイッグの支配が強力になり、以降半世紀もの間トーリーが与党に返り咲くことはなかった。選挙の後、ホイッグが支配した議会で七年議会法(英語版)が成立、議会の会期を(国王による解散を除き)7年に延長した。そのため既に政権を握っていたホイッグは、与党の座をさらに長期間保持することができた。 グレートブリテン王に即位した後、既に悪かったジョージ1世と息子ジョージ・オーガスタスの関係はさらに悪化した。プリンス・オブ・ウェールズであったジョージ・オーガスタスはイギリスにおける宗教寛容政策とハノーファーによるスウェーデンのドイツ領地の併合といった父の政策への反対を煽った。1717年、ジョージ・オーガスタスに子が生まれたことで、ジョージ1世とジョージ・オーガスタスの間で内紛がおこった。ジョージ1世は慣例に従い宮内長官(英語版)の初代ニューカッスル公爵を洗礼式での名親に指名したが、ニューカッスル公爵を毛嫌いしたジョージ・オーガスタスは言葉でニューカッスル公を侮辱した。これをニューカッスル公は勘違いして決闘の申し込みと考えたため、ジョージ1世は激怒した。ジョージ1世の命令によりジョージ・オーガスタスはセント・ジェームズ宮殿を追放された。ジョージの新しい住居であるレスター・ハウスはジョージ1世の野党のたまり場となった。ジョージ・オーガスタスの妻キャロライン・オブ・アーンズバックは夫とともにセント・ジェームズ宮殿を離れたが、ジョージ1世に引き取られた子供たちとの面会を切望し、結局ジョージ1世とジョージ・オーガスタスは後にロバート・ウォルポールとキャロラインの働きかけで和解した。しかし、この洗礼式での事件の後、ジョージ1世とジョージ・オーガスタスが親身になることはなかった。 ジョージ1世は治世の初期にはイギリスの外交政策に取り組んだ。1717年にはフランス、オランダとともに反スペイン同盟である三国同盟を締結、1718年に神聖ローマ帝国が加入したことで四国同盟が結成された。直後の四国同盟戦争はスペイン継承戦争と同じ理由で勃発した。1713年のユトレヒト条約はフランス王ルイ14世の孫フィリップをスペイン王フェリペ5世として承認した代わりにフランスの王位継承権を放棄させたが、ルイ14世が1715年に死去するとフェリペ5世は条約を破棄しようとした。 スペインは1719年にジャコバイトによるスコットランド侵攻を支援したが、嵐によりスコットランドに上陸できたスペイン軍は約300人程度であった。4月にはスコットランド西海岸のエレン・ドナン(英語版)城で基地が建設されたが、1か月後にイギリス艦隊に破壊された。ジャコバイトはスコットランドの氏族から募兵しようとしたが兵士約1千人しか集められず、装備も貧弱だったためグレン・シールの戦いでイギリス砲兵に易々と撃破された。氏族たちはハイランド地方に追い散らされ、スペイン軍は降伏した。そのため、この侵攻はジョージ1世の政府にとって脅威になることはなかった。フランスが敵側に回ったことでフェリペ5世の軍に勝ち目はなく、結局スペインとフランスの王位は分離されたままとなった。同時期にはスウェーデンとロシアのバルト海における覇権争いにより勃発した大北方戦争がハノーファーに有利な形で決着し、スウェーデン領ブレーメン=フェルデン(英語版)は1719年にハノーファーに割譲され、その代わりハノーファーは割譲に対する賠償金を支払った。
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戦争と反乱
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「ジョージ2世 (イギリス王)」の記事における「戦争と反乱」の解説
ウォルポールの意思に反し、ジョージ2世が喜んだことに、イギリスは1739年にスペインとの戦争を再開した。イギリスの対スペイン戦争であるジェンキンスの耳の戦争は1740年に神聖ローマ皇帝カール6世が死去した後に勃発したオーストリア継承戦争の一部となった。問題となったのは、カール6世の娘マリア・テレジアによるハプスブルク家領の継承権であった。ジョージ2世は1740年と1741年の夏をハノーファーで過ごし、選帝侯としてヨーロッパ外交に介入した。 フレデリックは1741年イギリス総選挙で野党を支持して選挙活動を精力的に行い、ウォルポールは安定多数を確保することに失敗した。ウォルポールはフレデリックに王室費支給の増額と負債の帳消しを提案して買収しようとしたが断られた。ウォルポールは支持を失ったことで1742年に20年間務めた首相を辞め、ジョージ2世が1727年に任命することを考えたウィルミントン伯爵が代わりに就任した。しかし、ウィルミントン伯爵には実権がなく、実際に権勢をふるったのはジョージ2世の(ウォルポールに次ぐ)寵臣カートレット男爵だった。1743年にウィルミントンが死去すると、ヘンリー・ペラムが首相に就任した。 カートレット率いる主戦派はマリア・テレジアがオーストリアを継承できなかった場合、フランスの勢力がさらに増長すると主張した。ジョージ2世はヘッセンとデンマーク傭兵1万2千人をヨーロッパ大陸に派遣して、表面上はマリア・テレジア支持をその目的とした。しかし、彼は内閣と協議せずに派遣軍をハノーファーに駐留させ、フランス軍による選帝侯領への侵攻を防ごうとした。イギリス陸軍は20年以上大規模な戦争を戦っておらず、政府はその保守を怠けた。ジョージ2世は軍隊の階級に専業主義を導入しようとし、階級の売買(英語版)で決めるのではなく戦功による昇進を推進したが、成功しなかった。オーストリア、イギリス、オランダ、ハノーファー、ヘッセンの連合軍は1743年6月27日(グレゴリオ暦)のデッティンゲンの戦いでフランス軍と戦った。ジョージ2世は親征してフランス軍を撃破、自ら指揮を執って戦った最後のイギリス国王となった。ジョージ2世の行動は称賛されたが、イギリス大衆はジョージ2世とカートレットがイギリスよりハノーファーの利益を優先したと感じ、戦争自体が不人気となった。カートレットは支持を失って辞任、ジョージ2世を狼狽させた。 ジョージ2世がカートレットの勧めばかり採用して、ほかの閣僚からの大ピット入閣の圧力をはねつけたことで、ペラム内閣との間の緊張が高まった。大ピットは与党の政策に反対し、親ハノーファーと見られた政策を攻撃したことで、ジョージ2世の不興を買っていた。1746年、ペラムとその支持者たちは辞任した。ジョージ2世はバース伯爵とカートレットに組閣を命じたが、どちらも48時間以内に議会の十分な支持を得られないとして辞退した。ペラムは政争に勝利して首相に返り咲き、ジョージ2世はピットの入閣を容認せざるを得なかった。 フランスはカトリックの王位継承者であるジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート(「老僭王」)を支持するジャコバイトによるジャコバイト蜂起を支持した。ジェームズは1688年に廃位されたジェームズ2世の息子である。1715年の蜂起と1719年の蜂起はどちらも失敗したが、老僭王の子チャールズ・エドワード・ステュアート(「若僭王」、「ボニー・プリンス・チャーリー」とも)は1745年7月にジャコバイトが最も支持されているスコットランドに上陸した。ハノーファーで夏を満喫していたジョージ2世は8月末にはロンドンへ戻った。ジャコバイトは9月のプレストンパンズの戦い(英語版)でイギリス軍を破った後、南のイングランド領へ進軍した。しかし、ジャコバイトはさらなる支持を得ることができず、フランスも支援の約束を破ったため、ジャコバイト軍は戦意を失ってスコットランドへ撤退した。1746年4月27日(グレゴリオ暦)、チャールズはジョージ2世の軍人肌な息子カンバーランド公ウィリアム・オーガスタスとカロデンの戦いで戦い、イギリス本土で戦った最後の陸上戦となった。チャールズはフランスへ逃げ帰ったが、多くの支持者が捕らえられて処刑された。ジャコバイト主義はつぶされ、以降ステュアート家復帰の試みはなくなった。オーストリア継承戦争自体は1748年にマリア・テレジアがオーストリア女大公として承認されるまで続いた。講和はロンドンのグリーン・パーク(英語版)での祝祭で祝われ、ヘンデルは祝祭のために王宮の花火の音楽を作曲した。
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