戦争と古川国民学校(1941-1947)
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「飛騨市立古川小学校」の記事における「戦争と古川国民学校(1941-1947)」の解説
1941年(昭和16年)、国民学校令の公布により古川国民学校に改称した。第二次世界大戦の戦況が厳しくなってきた1944年(昭和19年)7月27日の『古川国民学校日誌』には、「疎開者二名」の文字があり、親類を頼って古川町へ疎開する児童が現れた。疎開児童の正確な数は不明であるが、児童数の推移を見ると、1945年(昭和20年)度は各学年9 - 31人増加しており、戦争が終わった1946年(昭和21年)度には各学年6 - 15人減少していることから、この増減が疎開者と関係すると推定できる。 また『古川国民学校日誌』には児童の勤労奉仕作業に関する記述が多数残されており、1942年(昭和17年)度は初等科1 - 6年生が年間7日、高等科1・2年生が年間8日作業に従事していた。1944年(昭和19年)度になると初等科1年生は年間6日で、学年が上がるごとに作業日数が増加し、高等科生は年間70日と授業より作業が中心になっていた。これらの「作業」内容は、ドングリ・イナゴ・山菜などの採集、薪・炭の長距離運搬、防空壕掘り(高等科2年男子)、航空機部品整理(初等科6年)、工場への動員(高等科2年女子)などであった。校庭は開墾され、ソバ・ダイズ・サツマイモ・ムギなどを栽培した。 終戦により教育の民主化が図られ、御真影・奉安殿の撤去、軍事教練の武器の破棄または農具への転換、軍国主義的記述の塗りつぶし(墨塗り教科書)などが行われ、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指示で停止された修身・日本歴史・地理の授業時間は勤労作業や自由研究に充当された。古川国民学校は吉城郡内の教科書回収場所に指定され郡内各地から停止された科目の教科書が集められ、1946年(昭和21年)10月24日にはGHQ岐阜軍政部が古川国民学校へ視察に来訪した。
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