戦争と古川国民学校とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 戦争と古川国民学校の意味・解説 

戦争と古川国民学校(1941-1947)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/08 08:38 UTC 版)

飛騨市立古川小学校」の記事における「戦争と古川国民学校(1941-1947)」の解説

1941年昭和16年)、国民学校令公布により古川国民学校改称した第二次世界大戦戦況厳しくなってきた1944年昭和19年7月27日の『古川国民学校日誌』には、「疎開二名」の文字があり、親類頼って古川町疎開する児童現れた。疎開児童正確な数は不明であるが、児童数の推移を見ると、1945年昭和20年)度は各学年9 - 31増加しており、戦争終わった1946年昭和21年)度には各学年6 - 15減少していることから、この増減疎開者と関係する推定できる。 また『古川国民学校日誌』には児童勤労奉仕作業に関する記述多数残されており、1942年昭和17年)度は初等科1 - 6年生が年間7日高等科1・2年生が年間8日作業従事していた。1944年昭和19年)度になると初等科1年生年間6日で、学年上がるごとに作業日数増加し高等科生は年間70日と授業より作業中心になっていた。これらの「作業内容は、ドングリ・イナゴ・山菜などの採集薪・炭長距離運搬防空壕掘り高等科2年男子)、航空機部品整理初等科6年)、工場への動員高等科2年女子)などであった校庭開墾され、ソバ・ダイズ・サツマイモ・ムギなどを栽培した終戦により教育民主化図られ御真影奉安殿撤去軍事教練武器破棄または農具への転換軍国主義的記述塗りつぶし墨塗り教科書)などが行われ、連合国軍最高司令官総司令部GHQ)の指示停止され修身日本歴史地理授業時間勤労作業自由研究充当された。古川国民学校吉城郡内の教科書回収場所に指定され郡内各地から停止され科目教科書集められ1946年昭和21年10月24日にはGHQ岐阜軍政部が古川国民学校視察来訪した

※この「戦争と古川国民学校(1941-1947)」の解説は、「飛騨市立古川小学校」の解説の一部です。
「戦争と古川国民学校(1941-1947)」を含む「飛騨市立古川小学校」の記事については、「飛騨市立古川小学校」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「戦争と古川国民学校」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「戦争と古川国民学校」の関連用語

戦争と古川国民学校のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



戦争と古川国民学校のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの飛騨市立古川小学校 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS