戦争とリカルテの帰国とは? わかりやすく解説

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戦争とリカルテの帰国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/09 17:17 UTC 版)

アルテミオ・リカルテ」の記事における「戦争とリカルテの帰国」の解説

第二次大戦勃発すると、日本政府はリカルテに、フィリピン帰国することを求めた1941年12月19日台湾から北ルソンアバリ強行着陸北イロコス州から宣撫工作従事しつつ南下1942年1月2日日本軍マニラ占領すると、その4日後に市内入った日本軍から高級な宿舎与えられたリカルテは、旧コモンウェルス指導者財界要人フィリピン革命長老達から表敬訪問受けた。しかし新政府樹立するためのペニャフランシア会議には一度招かれず、大本営事前に立案したフィリピン占領政策にも、リカルテを占領後首班にする計画はなかった。リカルテが新体制得た要職は、24人目国家会議メンバーだったが、仕事民衆への宣撫工作だった。 1943年10月14日ホセ・ラウレル大統領とする第二フィリピン共和国樹立されると、親日派フィリピン人の中でクーデター計画企図され、リカルテも同意した日本軍内偵でことは事前に発覚し事態沈静化のため、リカルテは1943年12月31日日本送られた。日本では帝国ホテル滞在した。 4ヶ月後、リカルテがフィリピンに戻ると、ラウレル政権転覆をめざす空気以前より高まっていたが、いずれのクーデター未遂終わり、リカルテも賛同しなかった。太平洋戦争戦局日本不利なものとなり、ルソン島では抗日ゲリラ跳梁していた。 1944年9月末から10月にかけて、第十四軍首脳部大移動が行なわれ、山下奉文将軍らが新指導部としてマニラ着任した。リカルテは日本軍援助受けないフィリピン義勇軍編成した寡少兵力だった。

※この「戦争とリカルテの帰国」の解説は、「アルテミオ・リカルテ」の解説の一部です。
「戦争とリカルテの帰国」を含む「アルテミオ・リカルテ」の記事については、「アルテミオ・リカルテ」の概要を参照ください。

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