戦争とノンフィクション
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 03:05 UTC 版)
1964年11月15日、朝日新聞社臨時特派員として戦時下のベトナムへ。サイゴンのマジェスティック・ホテルを拠点にベトナム共和国軍(南ベトナム軍)に従軍して最前線に出た際、反政府ゲリラの機銃掃射に遭うも生還。総勢200名のうち生き残ったのは17名であった。このとき一時は「行方不明」とも報道された。この時のルポタージュ『ベトナム戦記』を発表、その後3年をかけて凄烈な体験をもとに小説『輝ける闇』を執筆。『夏の闇』『花終わる闇(未完)』とともに3部作となる。 帰国(1965年2月24日)後は小田実らのベ平連に加入して反戦運動をおこなったが、ベ平連内の反米左派勢力に強く反発し脱退、過激化する左派とは距離を置くようになる。その後は保守系の立場をとり、後に谷沢永一や向井敏などの右派系文化人を世に出した。 熱心な釣師でもあり、日本はもちろんブラジルのアマゾン川など世界中に釣行し、様々な魚を釣り上げ、『フィッシュ・オン』『オーパ!』など釣りをテーマにした作品も多い。現在では浸透している「キャッチ・アンド・リリース(釣った魚を河に戻す)」という思想を広めたのも開高だと言われている。また食通でもあり、食と酒に関するエッセイも多数ある。 1974年から神奈川県茅ヶ崎市に居住。1982年から『週刊プレイボーイ』の読者からの人生相談コーナー「風に訊け」を連載。この中で、開高健という名前について「一切名詞が入っていない珍しい名前で気に入っている」と綴り、開高健を「かいた、かけん=書いた?書けん!」と変読みした読者からの投稿を非常に気に入り、度々サインの際に引用していた。 1989年、食道癌の手術後、『珠玉』を脱稿するも東京都済生会中央病院に再入院、食道腫瘍に肺炎を併発し死去。58歳没。墓所は鎌倉・円覚寺塔中、松嶺院にある。死後、開高の業績を記念して、1992年から2001年までTBSブリタニカ(現阪急コミュニケーションズ)が開高健賞を、2003年から集英社がノンフィクションを対象に開高健ノンフィクション賞を創設した。2000年1月に羊子夫人が没し、その妹により16年間を過ごした邸宅が茅ヶ崎に寄贈され、開高健記念館として開設された。
※この「戦争とノンフィクション」の解説は、「開高健」の解説の一部です。
「戦争とノンフィクション」を含む「開高健」の記事については、「開高健」の概要を参照ください。
- 戦争とノンフィクションのページへのリンク