戦争との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/02 18:57 UTC 版)
第二次世界大戦末期の1944年(昭和19年)11月2日、大日本興行協会京都府支部の決定により、京都市内の映画館のうち11館が同日付で休館に入り、倉庫・雑炊食堂に転換することになった。西陣京極での対象館は、長久座(のちの西陣長久座)および西陣大映劇場(のちの西陣大映)であった。市内他地域で休館に入った映画館のうち、堀川中央館等は強制疎開に遭い取り壊されるが、西陣京極の2館は戦後復活している。1945年(昭和20年)6月26日早朝、第5回の京都空襲とされる西陣空襲が行なわれたが、対象地域は西陣京極の南端・中立売通よりもさらに南にある出水通であり、西陣京極は直接の空襲被害には遭わなかった。 「京都空襲」を参照
※この「戦争との関係」の解説は、「西陣京極」の解説の一部です。
「戦争との関係」を含む「西陣京極」の記事については、「西陣京極」の概要を参照ください。
戦争との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 21:52 UTC 版)
防火帯設置のため、1945年(昭和20年)4月に執行された強制疎開(第三次強制疎開)によって、わずか5日間の期限のうちに解体・更地にされた。同年6月26日早朝、第5回の京都空襲とされる西陣空襲が行なわれたが、対象地域は堀川京極の北端・中立売通と南端・丸太町通の間にある出水通であったが千本通よりであり、強制疎開が行われなかったとしても、堀川京極は直接の空襲被害には遭わなかったはずであった。 戦後、1948年(昭和23年)には、帯状の強制疎開跡地を利用し、幅50メートル・片側4車線におよぶ現在の幹線道路・堀川通へと舗装・整備が開始された。1950年(昭和25年) - 1953年(昭和28年)の時期に、堀川通西側に店舗付住宅「堀川団地」が建設された。「堀川団地」とは、椹木町団地、下立売団地、出水団地第一棟・第二棟・第三棟、上長者町団地の総称である。同団地に商店街が形成されて「堀川商店街」となって堀川京極を継承、1951年(昭和26年)には堀川商店街協同組合が結成されて戦前の堀川京極会を継承した。
※この「戦争との関係」の解説は、「堀川京極」の解説の一部です。
「戦争との関係」を含む「堀川京極」の記事については、「堀川京極」の概要を参照ください。
- 戦争との関係のページへのリンク