アラブとビザンツ帝国の戦争との関係
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「アラブ・ハザール戦争」の記事における「アラブとビザンツ帝国の戦争との関係」の解説
アラブとハザール戦争は、コーカサス山脈に隣接し、戦争の舞台となった小アジア東縁におけるビザンツ帝国に対するイスラーム帝国の長期にわたる戦争ともある程度関連していた。ビザンツ帝国の皇帝たちはアラブとハザールの戦争の大部分の期間において、705年のユスティニアノス2世(在位:685年 - 695年、705年 - 711年)のハザール王女(テオドラ(英語版))との結婚のような特別な例を含むハザールとの実質的な同盟関係に等しい密接な関係を築こうとした。また、アルメニアを介してビザンツ帝国とハザールの連携が実現することは、とりわけアルメニアがウマイヤ朝の本拠地であるシリアに近接していることから、ウマイヤ朝にとっては重大な脅威であった。しかしこの連携は実現せず、ウマイヤ朝が広汎な自治を認めることでアルメニアの大部分では平穏な状態が続き、ビザンツ帝国も同様にアルメニアに対する積極的な軍事行動は控えていた。実際にはハザールの襲撃によってもたらされる共通の脅威を考慮した結果として、ウマイヤ朝はハザールに対するアルメニア人(および隣接するジョージア人)との積極的な同盟関係に行き着くことになった。 一部のビザンツ学者、特にディミトリ・オボレンスキー(英語版)は、ハザールに対するアラブの軍事展開は、北からビザンツ帝国の防衛線の背後に回り、ビザンツ帝国を包囲して挟撃しようとする動機に基づいていたという説を提示している。しかし、この説はあり得そうもないとして現代の学者たちからは受け入れられていない。歴史家のダヴィド・ワッサースタインは、この考えは「ビザンツ帝国がイスラーム教徒に対してすでに戦争の初期の段階で帝国を征服することはできないであろうと思わせることに成功」しており、さらには戦争の過程で明らかにすることができる以上に「はるかに多くのヨーロッパの地理に関する知識と理解」をイスラーム教徒が有していたという前提を受け入れる必要があるとし、途方もない野心に基づく構想であると述べている。マコは同様に、720年代まではアラブとハザールの戦争はかなり限定された状況の中で進行しており、このような壮大な戦略的計画の存在を裏付ける証拠はないと述べている。 コーカサスを越えたアラブ人の北方への拡大は、少なくとも当初はイスラーム教徒の初期の征服活動が推し進められていた勢いの結果であり、地方のアラブ軍の司令官が場当たり的に、そして全般的な計画を立てることなしに征服の機会を利用しようとしていた可能性が高い。この拡大はカリフの命令に正面から逆らっていた可能性があるものの、このような行為はこの時代にはしばしば繰り返し起きていた。戦略的な観点から見れば、8世紀初頭にビザンツ帝国が東部の国境地帯に対して高まっていた圧力を軽減するために、ハザールに対してウマイヤ朝を攻撃するように働きかけていた可能性が非常に高く、実際に720年代と730年代にイスラーム教徒の軍隊が北方へ軍事行動を起こしたことから、733年に将来のビザンツ皇帝であるコンスタンティノス5世(在位:741年 - 775年)とハザールの王女チチャクとの婚姻を通じた同盟関係が成立し、ビザンツ帝国は大きな利益を得ることになった。 また、シルクロードの北方の交易路の支配権を握ることがイスラーム帝国の戦争へのさらなる動機につながったとする説があるものの、マコはシルクロードにおける交通量が最も増大した時期である8世紀半ば以降にアラブとハザールの間の戦争行為が減少したことを根拠にこの主張に異議を唱えている。
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