アラブおよびその周辺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 22:46 UTC 版)
「ムアンマル・アル=カッザーフィー」の記事における「アラブおよびその周辺」の解説
エジプト エジプトのガマール・アブドゥル=ナーセル大統領に心酔しており、クーデターで政権を握った翌年に初めてエジプトを訪問、ナーセルと会談している。が、直後にナーセルは急死、その後、エジプトとリビアは20年にわたって友好、敵対の関係を繰り返すことになった。 当時、汎アラブ主義を唱えていたカッザーフィーは、1973年エジプトを訪問しサーダート大統領に対し、エジプトとリビアの合併を執拗に迫り、「サーダートが合併に合意するまで帰国しない」と主張しエジプト側を大いに困らせたことがある。1977年にエジプトとイスラエルが和解するやカッザーフィーはPLO、イラク、シリアとともに反エジプトの急先鋒に立ち、国交を断絶し、エジプトをアラブ連盟から追放した。そしてエジプトと同じだった国旗を一夜にして緑一色に変更した。その後もカッザーフィーはサーダート政権の打倒を繰り返し呼びかけ、1981年、実際にサーダートが暗殺されるとトリポリ放送を通じ「いかなる暴君にも必ず終りがある。自由の戦士たちよ、おめでとう」と祝福の声明を出した。後継のホスニー・ムバーラク政権に対しても敵意をむき出しにし、1985年にはスーダンでクーデターが起きた際に「エジプト国民もムバーラク政権も打倒せよ」と呼びかけ猛反発を買った。1989年5月に開催されたアラブ首脳会議ではエジプトの20年ぶりの連盟復帰が議題にされることになっていた。これにカッザーフィーは強く抗議し国営ジャマヒリア通信を通じ「エジプトが復帰するなら絶対に会議に参加しない。いかなる理由があろうと絶対に認めない」と強硬姿勢を示していた。が、突然方針を変更、会議に参加しエジプトの復帰が決まるとムバーラクに急接近し、翌年には17年ぶりにエジプトを訪問し国交を回復、後年まで友好関係は続いていた。1998年にカッザーフィーが骨折して入院した際にはムバーラクが病院へ見舞った。 他の中東・北アフリカ諸国 1974年、イラン皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィーの支配体制打倒を呼びかけ、皇帝と激しい対立関係に陥った。1979年、イラン革命が起きると関係を修復し、翌年勃発したイラン・イラク戦争でもアラブ諸国の中でも珍しくシリアとともにイランを支持・支援した。 その後モロッコのハッサン国王(1984年にカッザーフィーが14年ぶりにモロッコを訪問して和解)やチュニジアのハビーブ・ブルギーバに対しても敵対発言をしたかと思えば和解を繰り返すなどしている。サウジアラビア国王のアブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズともアラブ首脳会議で罵りあって退席したりと対立が続いていたがのちにカタール国王のハマド・ビン・ハリーファ・アール=サーニーの仲介で和解している。 1982年、イスラエル軍のレバノン侵攻でPLO議長のヤーセル・アラファートの動向に世界中の注目が集まる中、「アラファートがいまだ独身なのは彼がホモだからだ」と突然発言。この発言はアラファートからは相手にされなかったものの、1992年4月にアラファートの乗った飛行機がリビアの砂漠で不時着した際は議長を救助し真っ先に病院に見舞った。この当時、リビアはパンナム機爆破事件の容疑者引き渡し問題で国連制裁を受ける瀬戸際にあった。アラファートは「私はわが友人、カッザーフィーの側に立たねばならない」とリビアを擁護。カッザーフィーとアラファートの関係は決して悪いものではなかった。 1990年、湾岸危機が起きた際にはイラクとクウェートの和解を目指して提案を行ったが失敗している。 1991年10月にパレスチナ問題の解決を目指しマドリードで開かれた中東和平会議の際には「我々がヒトラーの尻ぬぐいをする必要はない」とイスラエルとの和平交渉を厳しく批判した。翌年オスロ合意にも反発し1995年からはリビアから一切のパレスチナ人を追放した。そしてイスラエルとパレスチナがひとつの国家「イスラティナ」を樹立すべきだと提案したが相手にされず、その後もアラブ首脳会議でイスラティナ構想を提唱しているがパレスチナのマフムード・アッバース議長からは苦笑いされるだけで終わっている。1995年、イスラエル首相のイツハク・ラビンが暗殺された際には国営ジャマヒリア通信を通じ「彼の手は虐殺されたパレスチナ人の血で染まっている」と歓迎声明を出した。 1999年、ヨルダン国王のフセイン1世が死去した際、ヨルダン王制の打倒を呼びかけた。しかしその後、後継のアブドゥッラー2世とは関係は悪くなかったようで、リビア革命40年記念式典にもアブドゥッラーは招待されて出席している。 2006年12月、イラクのサッダーム・フセインが処刑されると「彼は殉教者になった」としてリビアは3日間喪に服した。1979年に副大統領だったサッダームとカッザーフィーはバグダードで会談している。ただ、カッザーフィーは1992年に国連制裁を受けた際に同じく制裁を受けていたイラクのサッダーム政権に友好協力を呼び掛ける書簡を送ったことがあるものの、同じアラブの反米指導者とはいえそれほど親しい間柄にあったわけでも無かった(イラン・イラク戦争でリビアがイランを支持したこと、イラクのクウェート侵攻をリビアが批判したことも原因)。 2009年11月、FIFAワールドカップアフリカ予選試合でエジプトとアルジェリアが険悪な関係となる中で、アラブ連盟のムーサ事務局長がカッザーフィーに仲介を要請、カッザーフィーはこれを受諾した。
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