イラクのクウェート侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 04:41 UTC 版)
詳細は「クウェート侵攻」を参照 1990年8月2日午前2時(現地時間)、戦車350両を中心とする共和国防衛隊機甲師団10万人はクウェート侵攻を開始。ムバラク大統領とアラファト議長を完全に出し抜いた格好だった。なお、イラク軍にすらこの侵攻計画は事前に知らされておらず、参謀総長や国防大臣は侵攻をテレビやラジオの報道で聞かされ寝耳に水の状況だった。 クウェート軍の50倍の兵力での奇襲により、午前8時までにはクウェート全土を占領。同時に革命指導評議会はクウェート政権が打倒されたと宣言し、同日夕刻にイラク国営放送が、クウェートにおいて革命を起こした暫定自由政府(ほぼ全員の政府閣僚が、クウェート人に知られていないイラク軍人による傀儡政権だったと見られる)の要請により介入したと報じた。一方、クウェートのジャービル3世首長はサウジアラビアへ亡命した。異父弟のファハドは少人数の警護隊とともに宮殿内での銃撃戦により死亡した(一説には、乗っていた飛行機がクウェート国際空港で足止めされたところをイラク軍に拘束され殺害されたともいう)。クウェート暫定政府はアラー・フセイン・アリーを首班とするクウェート共和国と名前を変えたが、翌日にはイラクに併合された。
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